【日本絵画界の重鎮・梅原龍三郎】画商の失敗をかばい自分の作品を無償で提供。しかも現金まで差し出す
福田和也・世界大富豪列伝「蕩尽の快楽」連載第118回 梅原龍三郎(その三)

昭和47年5月、東京・銀座の吉井画廊で「梅原龍三郎北京作品展」が開催された。
コレクターや美術館の手に渡って散り散りになっている、梅原の北京時代の絵を一堂に集めて展示するという企画で、代表作『北京秋天』を含む油彩、岩彩76点が集められた。
8日から31日まで、24日間開催された展覧会は評判を呼び、連日盛況だった。

ところが、最終日前日の30日の朝、会場から『姑娘』、『姑娘と蓮花』、『姑娘(郷郷)』、『北京秋天』の4点が盗まれてしまう。
犯人はトイレの窓の鉄格子を切り取り、ガラス戸を外して侵入したのだった。
事件はすぐにニュースで流れ、展覧会の主催者である吉井長三が梅原の家に呼ばれた。

「『君、どうするつもりかね』/と、私の顔をのぞき込むように言われる。/『保険をかけてありますので、絵を借りたところには、保険を含めてお金で弁償したいと思います』/4点で時価5400万円相当の金額だった。すると先生は、/『金で済まないこともある。君は画商でしょ。商人は信用が第一なのだから、ここにある絵を全部持っていきなさい。それで、この絵を欲しいという人にあげなさい』/と、応接間にかかっている作品を指差されたのだ」(『銀座画廊物語』吉井長三)

画商の失敗をかばうために、自分の作品を無償で提供したのだ。
そればかりか、「当面必要のない金だから使ってくれ」と、3000万円の現金まで差し出したという。
当時、梅原は84歳。画家として精力的に制作を続けていた。

昭和23年、梅原は麻布・新龍土町から、新宿区市谷加賀町に転居した。
戦前から軽井沢六本辻に別荘を持っていたが、28年、同じ軽井沢の矢ケ崎に別荘を移した。

「別荘は軽井沢の碓氷峠よりの端に位置し、裏手は小さな山になっており、人家はなく、そのまま碓氷峠に続いている。/敷地内は大変広く、別荘の前方には池があった。建物はこぢんまりした木造二階建てで、二階前面が先生のアトリエになっており、三方が全部ガラスになっていて、正面に浅間山の雄大な姿が麓のほうまで望めた」(『梅原龍三郎先生の追憶』岡村多聞堂)

自邸も別荘も両方のアトリエも全ては吉田五十八の設計だった。
梅原は設計にはとくに口は出さなかったが、アトリエの壁の色だけはこだわり、何度もやり直しをさせて、最終的に岡山の赤土を混ぜた紅殻色に落ち着いた。

アトリエには雰囲気を整えるため、高価な万暦赤絵や李朝の壺などが無造作に飾られた。
梅原は美術コレクターとしても知られていたが、購入したものは桐箱にしまっておくのではなく、日常に使った。
豪華な明の赤絵の鉢に水を張って、吸った煙草をどんどん投げ入れ、灰落としとして使っていたという。