週刊現代
「天皇の公園」になった江戸の聖地
魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」第119回

石黒忠悳という人物を覚えておいでだろうか。前に軍医・森鷗外と陸軍の脚気惨害の関係について述べたとき、しばしば登場した陸軍軍医本部のボスである。
彼は97歳で亡くなる前に『懐旧九十年』(岩波文庫)という自伝を遺した。そのなかで上野公園と東大医学部の歴史にまつわる興味深いエピソードを語っている。

明治3(1870)年、石黒が26歳のときのことだ。彼は当時、東大医学部の前身である大学東校の下っ端教職員だった。上司の相良知安(佐賀藩出身の洋学者)は文明開化の時代を担う学校と病院の新築プロジェクトの担当者で、石黒はその下で働いていた。

<その折、政府ではすでに鉄道の計画もあるとのことゆえ、私は一日、大隈(重信)参議を訪うて、中央のステーションはどこに置かるるかを問うたら、上野広小路にするということであったので、上野全山を医学校の敷地にしようということを政府に申請し、許可を得て上野の周囲境界に大学東校敷地という棒杭を打ち、日々その計画をしました>

これは、いささか乱暴な話だった。なぜなら山には上野戦争で焼け残った寛永寺の子院が散在し、僧侶らが住んでいたからだ。寛永寺は一山あげて反対の嘆願書を東京府に提出したが却下され、明治3年5月、東校用地に決定。7月から病院の基礎工事が始まった。

大学東校の計画は(1)(いま西郷像が建つ)山王台から鶯谷一帯(上野の山の東側)に病院を建て、病院の散歩場から浅草・下谷一帯を見下ろせるようにする、(2)竹の台周辺(現在噴水のある場所)に各教室を設ける、(3)谷中道の東(公園の北側)に大寄宿舎を建てるという雄大なものだった。

そのうえ、いまの上野駅の辺りに<一大浴療所>を設け、鉄道の開通とともに全国の温泉を取り寄せて湯治できるようにする計画もあった。もし大学東校の思惑通りにことが運んでいたら、上野は今ごろ東大病院と温泉センターの街になっていたにちがいない。
だが、その計画に待ったをかける外国人が現れた。明治3年7月から大学東校で講義をはじめたオランダ人医師ボードワンである。彼はある日、石黒らの案内で上野の山を訪ね、しきりにその景観の奥深さや静けさを誉めたたえた。

石黒が大得意になって建築図面を出し、設計について意見を求めたところ、ボードワンは「こんな古い樹木のある景勝無類の地を潰して学校や病院を建てるなどとんでもない。公園にすべきだ」と石黒を叱りつけ、唖然とさせた。
何しろ日本に公園という概念がなかった時代の話である。石黒が唖然としたのも無理はない。

その後、石黒はボードワンに呼ばれて宿舎を訪ねた。すると「東京には将来必ず公園が必要になる。あの上野の山を病院にしたら、後悔するから、私はすでにオランダ公使経由でその旨を政府に書面で忠告した」と言われたという。

ボードウィン(左)と医学生たち---wikipediaより

それから数日後、政府から「上野を東校敷地とするのは取り消す。替え地は追って交付する」と通告があり、後日、東校には加賀藩上屋敷(今の本郷キャンパス)が交付されたと石黒は語っている。