【日本絵画界の重鎮・梅原龍三郎】日本人受けする印象派の絵画---知名度も絵の値段もぐんぐん上がった
福田和也・世界大富豪列伝「蕩尽の快楽」連載第117回 梅原龍三郎(その二)

大正二年、フランスから帰国した梅原龍三郎は東京三崎町のヴィナス倶楽部において、白樺社主催の油絵展覧会を開催した。
滞欧作110点が出品され、最高価格は800円、最低が20円、ほとんどの作品は100円以下だったという。
公立学校の教師の初任給が50円の時代である。現在の貨幣価値に換算すると、最高価格は400万円といったところだろうか。

しかし、この展覧会で売れたのは、『リンゴ畑』一点であった。
帰国した翌年、梅原は、洋画家亀岡崇の妹、艶子と結婚した。

「実は、この艶子さんは『白樺』を定期購読されていた方で、その購読を受けつけた“同人の一人”が夢中になっていたんだそうです。その女性を帰国してすぐの梅原先生が攫う形になったわけです。(中略)この“同人の一人”というのは、里見弴さんご自身だったのではないでしょうか」(「私だけが知っている『梅原龍三郎』」吉井長三)

大正4年には東京の北品川御殿山に自ら設計したアトリエに移り、長女の紅良が生まれ、4年後には長男成四も生まれるが、家も生活も親がかりであった。
にもかかわらず、大正九年に御殿山の家を売り払って再度渡仏したのは、ルノワールの訃報に接したからである。

「あのときは、実に、天地が裂けたか、と思った。眼の前が本当に真暗になった」(『私の梅原龍三郎』高峰秀子)

ルノワールの遺族を訪ね、その後、カンヌ、ナポリと回ったが、長きには及ばず、1年で帰国。
その翌年の大正11年、父からの最後の仕送りで東京麻布の新龍土町に土地と家を求め、以降は自分の画業一本で生計を立てていくことになる。梅原、三四歳のときであった。

幸いにも、梅原の絵は日本でよく売れた。
それは、ルノワールに師事したことが大きいと思う。
日本人は印象派好きで知られる。日常における人物や風景を鮮やかな色彩で描く印象派の絵画は日本人にとって、実に分かりやすい泰西名画なのだ。
その流れを汲んでいるからこそ、梅原の絵は受け入れられた。

売れるから次を描くことができ、その絵もまた売れる、名が上がり、絵の値段も上がっていく。かくも恵まれた循環のなかに、梅原はごく自然に入っていったのだ。

一番張りのあった「北京時代」に

中川一政は、『近くの顔』(中央公論社)の中で、梅原についてこう書いている。

「私は梅原より六、七年おくれて画を描き出したが、その時分油絵などは、売れるものではなかった。/再度の渡欧から帰朝した時、梅原はこう云った。/『いい画を描けば売れるという自信がついた。』それから後になってまた云った。/『高く売らなければ売った気がしない。』/この言葉は私をまごつかせた」

もしも梅原がピカソに師事していたら、こうはいかなかったに違いない。