震災から4年、陸前高田でシャッターを切り続けるということ。
2015年3月11日夜、市内で有志の方々が想いを寄せ合った「高田に輝(ひかり)の花を咲かせよう」のキャンドル。

「写真って何だろう」という問い

東日本大震災から4年。3月11日は今年も陸前高田で過ごすことになった。この街を一望する箱根山の伝承館で追悼集会と遺族会の集まりがあると声をかけられ、夫と2人、14:46をここで迎えることになった。

防災無線からサイレンが響き渡り、山の間から市街地に臨み、人々が静かに目を閉じる。この街で知人を亡くしていない人は誰一人としていないほど、あまりにも多くの命があの日、犠牲となった。それぞれが大切な人を思い浮かべながら、この1分間を過ごしていたことだろう。

そのサイレンの音に、終始「カシャッ、カシャッ」とカメラの鋭いシャッター音が混じっていた。この日は同じ時間に、テレビ・新聞など、10社ほどがそこに集結していた。黙とうが終わり、コーヒーをすすりながら、遺族の集いに来た男性が静かに呟く。「撮らなきゃいけないのは分かるんだけどさ、例えば何枚か撮ったら一緒に黙とうするとか、そういうことって出来ないかねえ」。手を合わせる献花台の後ろに何機ものカメラが一度に構えられると、私たちでさえその威圧感に戸惑うことがあった。

「写真って何だろう」。恐らくシャッターを切る者たちが少なからず突きつけられてきた問いだろう。実際この日のように、私もたった1枚の写真で、人の心を傷つけたことがあった。

誰の立場に寄り添って、希望を伝えるのか

2011年3月、圧倒的に破壊されてしまった街を前に、ただただ戸惑いながら日々が過ぎていった。物資を運びながら、肩にかかったカメラがいつも以上に重く感じた。写真では、直接的に人を救うことができないからだ。私たちが何度シャッターを切ったとしても、瓦礫が除かれることはない。避難所の人たちのお腹が満たされるわけではないからだ。

そんな3月、ほぼ唯一シャッターを切ることができたのが、後にその名を知られることとなる、「一本松」だった。かつて日本百景のひとつに数えられた、高田松原。7万本の松林が見る影もないほどごっそりと流されてしまった中で、たった1本だけ波に耐え抜いた背の高い松が、海沿いを歩いていた私たちの目の前に朝日と共に浮かび上がった。「まるで奇跡みたいだ・・・」と、ほとんど反射的にカメラを構えた。そのときの私の目には、あの松が何か希望の象徴のような、何か力を与えてくれるもののように写っていたのだ。