大坂夏の陣400周年『歴史に埋もれた長宗我部家の盛衰』十七代当主・長宗我部友親氏インタビュー

近衛龍春著『長宗我部 最後の戦い』文庫書下ろし刊行記念

今年(2015年)は、徳川氏が豊臣氏を滅ぼした大坂夏の陣から、ちょうど400年目にあたる。豊臣方に与した武将たちの中でも、その悲劇性が突出しているのが長宗我部盛親であり、その半生を追った時代小説がこのほど刊行された。長宗我部家・現当主の友親氏のインタビューをお届けします。

(構成・松木淳/撮影・岡田康且)

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古代から続く長宗我部家の歴史

─―秦の始皇帝(前二五九~前二一〇年)を遠祖とする長宗我部家は、じつに二千年以上にわたり系譜を繋いできました。この長い血脈の歴史の中で、日本に渡来したのはいつごろのことなのでしょうか。

長宗我部: 長宗我部家の系図をみると、秦の始皇帝の次に記されているのが孝武王です。「五世或十世 世数未詳」との添え書きがあり、始皇帝と孝武王との間には五人から十人の後継者がいたと思われます。その孝武王のあとに書かれているのが功満王。この人のところに「仲哀帝八年帰化」との書き付けがあります。仲哀天皇は日本武尊の第二子で神功皇后の夫です。

この記述から推察すると、功満王が朝鮮半島を経由して日本に渡来し帰化したということになります。その後、弓月王、普洞王と続き、この普洞王のときに仁徳天皇から「波陀」の姓を授けられました。これが転じて「秦」となり、以降一族は秦氏を名乗ることになります。

長宗我部友親(ちょうそがべ・ともちか) 1942年高知市生まれ。長宗我部家17代目当主。早稲田大学卒。共同通信社に入社し、経済部長などを経て常務監事。2004年に退任。現在は編集プロダクション「企画の庭」社長を務めている。著書に『長宗我部』(文春文庫)がある。

──天皇から姓を賜るということは、相応の身分を与えられたということですね。

長宗我部: 大陸の先進の技術や文化を持ち込んだ渡来人が、古代日本の国家形成に大きな影響を与えたことは知られていますが、秦氏もそうした渡来系の一族でした。普洞王の二代あと、六世紀後半から七世紀半ごろに、秦河勝という人物が登場します。河勝は養蚕で財をなしますが、中央政権への財政的援助もしていたと思われます。

また土木技術の知識で都の造営などにも寄与しました。聖徳太子が制定した冠位のなかで二番目にあたる「小徳」の位にあり、聖徳太子の側近として政治的、軍事的ブレーンのような役割を果たしたといわれています。

──土佐へはどういった経緯で移ったのですか。

長宗我部: 河勝の時代に用明天皇が崩御し、その際に皇位継承争いが起きます。聖徳太子が広めようとしていた仏教の擁護派と排仏派に分かれた争いで、河勝はもちろん擁護派に属き、敵対する物部守屋を討ち果たします。その功績で河勝には信濃の国が与えられました。そのことにより、河勝の末裔が信濃に移り住むことになります。こうして秦氏は政治の表舞台からは次第に遠ざかっていったようですが、中央との繋がりは切れていませんでした。

後白河天皇と崇徳上皇が皇位継承をめぐって対立した保元の乱(一一五六)のとき、信濃にいた秦氏の当主は能俊でした。能俊は、崇徳上皇側について挙兵し都に駆けつけますが敗北を喫してしまいます。敗走する能俊が目指したのが四国、土佐だったのです。現代でこそ目と鼻の先のような距離に思えますが、当時、海を渡らなければならない四国は遠流の地でした。能俊は土佐の「長岡郡」の「宗(曾)我部」郷に隠れ「長岡の宗我部」から長宗我部を名乗ります。このときから土佐の長宗我部家が始まるわけです。

能俊の末裔たちは、かつて聖徳太子の側近として活躍した秦一族の復活を夢見つつ、都で得た縁から藤原氏、足利氏、一條氏ら中央政権の有力氏族との交流を続け、土佐に地盤を固めていきます。

そして土佐に来て約三百五十年、能俊から数えて十九代兼序のときに悲劇が訪れます。長宗我部家の居城であった岡豊城が地場豪族の襲撃を受けたのです。敗色が濃くなると兼序は、継嗣の千雄丸をひそかに城から逃がし、自刃して果てます。

──この千雄丸がのちの国親で、盛親の祖父にあたる人ですね。

長宗我部: そうです。千雄丸は、土佐・中村の一條家に匿われます。一條家は応仁の乱(一四六七年)の戦火を逃れて都から土佐にやってきたのですが、そのときに出迎え接待したのが十六代文兼だったのです。文兼は国内の有力な領主たちに根回しをして、一條家を事実上の国司にする手助けもしています。過去のそうした関係から千雄丸は一條家に保護されることになりました。また、長宗我部の領土を簒奪した地場豪族と掛け合い、長宗我部に領土を返還させたのも一條家でした。