横山禎徳【第3回】「建築家からヒッピーにもなって、どうしてマッキンゼーのコンサルタントになったんですか?」
慎泰俊氏と横山禎徳氏

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前川國男とマービン・バウアーに学んだこと

慎泰俊: 前川さんから学んだいちばん大きなことはどういうことでしょうか?

横山禎徳: 私はマッキンゼーに入って辞めるまでの27年間、一度も「仕事をくれ」って言ったことがないんです。プロフェッショナルというのは、仕事は頼まれるものだと前川さんが常日頃言っていたことを私も思っていましたから。でも、建築家は自分が設計して出来たものを見せることができるけど、経営コンサルティングなんて仕事は当時日本になかったので、「一体、何をしてくれるっていうんだね?」みたいな感じでした。「あんたらは俺たちのカネを使って勉強するんじゃないのか?」とかね。だから、「仕事をください」と言わずに仕事を取るというのはけっこう高度なアートでしたね。

慎: それはどうするわけですか? 話をして、その間に向こうから「仕事をしてほしい」と言われるのを待つということですか。

横山: そうです、じっと待つんです。4年くらい(笑)。

慎: 当時のマッキンゼーには、オフィスが同じではなかったとしてもマービン・バウアーさんが在籍していて、東京支社長としてやりとりすることも多かったと思います。彼からは何を学ばれましたか?

横山: バウアーは初め弁護士事務所に入っています。弁護士事務所という組織はすごくヒエラルキーが強い。有名な弁護士ジョークに、シニアパートナーがみんなを集めて"We're all equal. But I'm more equal than you."というのがあります(笑)。3年でパートナーにならなければいけない、パートナーなると収入から人件費などの経費を引いて残ったものをパートナーで分けるのだから、1年間給料くれない、とか、けっこうシビアな世界なんですね。

彼も3年でパートナーになれなかったんだと思うんです。だから出来て間もない、ナンボのもんかわからないジェームズ・O・マッキンゼーのマネジメント・コンサルティングの事務所に入ったわけですよ。当時は「マネジメント・コンサルティング」はプロフェッショナルとしてとして認知されていない。だから、弁護士事務所と同じくらいには認められるように経営したいけど、弁護士事務所のようなきついヒエラルキーだけは排除したいというのが、多分彼の想いだったんです。

ジェームズ・O・マッキンゼーという人はシカゴ大学の会計学の教授で、公認会計士事務所を持っているんだけど、それとは別にマネジメント・コンサルティングの事務所を作って、その後、シカゴの大会社のCEOにスカウトされ、その3年後に48歳で肺炎で亡くなったんです。そのときシカゴとニューヨークにオフィスがあって、シカゴオフィスはアンドリュー・トーマス・カーニーがオフィスマネジャーで、ニューヨークはマービン・バウワーがオフィスマネジャーだった。

ジェームズ・O・マッキンゼーがファウンディング・パートナーでほとんどの株を持っていたと思うんだけど、マービン・バウワーはすぐにカーニーに話をして、マッキンゼーという名前を買い取っちゃうわけです。だから、マッキンゼーのシカゴオフィスはA.T.カーニーになって、ニューヨークはマッキンゼー・アンド・カンパニーになったわけです。マービン・バウワーは自分の名前を使わなかったわけだけど、その違いは何だかわかりますか?

要するに、すべてみんなヒエラルキーの世界に生きているから、クライアント開拓をすると代表が挨拶に来いという話になるわけですよ。「誰がいちばん偉いんだ、バウワーがトップならバウワーが挨拶に来い」と、そういう話になるわけですが、それは彼の平等意識の感覚に合わない。マッキンゼーという名前を買い取っておけば、「誰がいちばん偉いんだ、マッキンゼーか、だったらマッキンゼーが挨拶に来い」って言われても「もう死んでますから」って言えるわけです(笑)。マービン・バウワー平等意識というのは徹底していましたね。

彼は自分か持っていたマッキンゼーの株を後に多くのパートナーに分けましたが、買い取った時の価格で売りました。グリード(強欲)も彼は徹底的に嫌いました。