【日本絵画界の重鎮・梅原龍三郎】「健啖家」にして生粋のぼんぼん。昭和日本の洋画界にこの人あり―
福田和也・世界大富豪列伝「蕩尽の快楽」連載第116回 梅原龍三郎(その一)

私の好きな梅原龍三郎の絵に『竹窓裸婦』がある。
赤い垣根と竹林をバックにして、脚を組んで椅子に座る裸婦を真正面から描いている。

裸婦の体の線に使われている緑色がいい。力強い線でありながら、竹林の緑が映されているような涼やかさがある。
明治41(1908)年、20歳で渡仏した梅原は、リュクサンブール美術館で見たルノワールの絵に深く感銘し、その後師事することになるのだが、ルノワールは梅原に対し、「君には色彩がある。デッサンは勉強で補えるが、色彩はタンぺラマン(天性)だ」と高く評価していたという(「梅原龍三郎の芸術」小川正隆)。

今、梅原の絵はいくらくらいで買えるのだろうと、知り合いの画商に聞いてみたところ、「四号の油彩『裸婦』が800万円でありますよ。少しお安くいたしますが、いかがです?」と言われた。

800万円が高いのか安いのかは微妙だが、私は自分の住いの部屋に梅原の絵を飾ったところを想像してみた。そこだけ全く違う空間になってしまう気がした。
それほど絵が強いのだ。

芥川龍之介は梅原の絵を「並みの日本人と食いものが違う」絵だと評していたが、実際、梅原は大変な健啖家だった。
80歳を過ぎても、軽く三人前の鰻をたいらげていたというのだから、たいしたものだ。
ただし、日本料理で好きなのは鰻くらいで、もっぱらフランス料理と中華料理を好んだ。
日本料理は「風を食ったようで、ものたりない」と言っていたという。
キャビアとフォアグラが大好物で、いつも家に常備していて、昼食にも夕食にも薄いトーストとともに食べた。
中華料理はフカヒレとナマコに目がなく、この二つがおいしい店と聞くと、それがたとえ中国であっても出かけていった。
しかし、そもそも梅原は京都生まれの生粋のぼんぼんだったのだ。

梅原龍三郎は明治21年3月9日、京都市下京区芦刈山町で生まれた。
生家は友禅やちりめんなどの布地を扱っている絹問屋で、屋号は「宇治屋」であった。

京都の中心の四条通りのすぐ南、西洞院と油小路にはさまれたところで、染屋、糊屋、置き屋、しみぬき屋などが集まっていた。
小川正隆によれば、梅原は「京の幼きときの思ひ出」として、こう記している。

「我家は小さな家許りの芦刈山町で断然大きな家でした。家業は一ト口にいふと悉皆屋です。呉服物の問屋から集る白生地の図案、染色、刺繍などをそれぞれの職先きに分配して出来上がつたものを所謂得意先に届ける迄の仕事です。この町の大部分の家は私の家の仕事をする家であつたから、自然子供心に一町内に君臨する気持ちを持たされてゐました」
梅原は幼い頃からヤンチャ坊主で、チャンバラごっこをして相手のおでこを断ち割ったり、本身の刀を振り回したりもしたけれど、父親は何をしても怒らなかったという。