週刊現代
まつろわぬ者たちの上野
魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」第118回
上野公園---〔PHOTO〕gettyimages

お花見などで上野のお山に行かれることがあったら、是非、彰義隊の墓を御覧になるといい。西郷サンの銅像の裏手に建っているからすぐに見つかるはずだ。
そこはもともと1868(慶応4)年5月の上野戦争で死んだ彰義隊員(計266人)の遺体を荼毘に付したところだ。16年後に彰義隊生き残りの小川興郷(将軍慶喜の元家臣)らの手で今の墓が建立され、以来120年余、小川一族の手で守られてきた。

墓守の一族の苦労は並大抵のものではなかったらしい。何しろ彰義隊は靖国神社に合祀もされない賊軍だ。西郷隆盛のように没後の名誉回復もなされなかった。「朝敵」の汚名を背負ったまま生きなければならなかったからだ。

彼らが政府から受けた冷遇は墓碑銘が如実に示している。高さ6・7mの大墓石には旧幕臣・山岡鉄舟の筆で「戦死之墓」と刻まれているだけで肝心の彰義隊の3文字がない。つまり上野戦争から16年たっても彰義隊の名を書くことがはばかられたのである。

小川一族にとって救いがあるとすれば、それは彰義隊とともに壊滅的な打撃を被った寛永寺の僧侶たちの配慮だったろう。「戦死之墓」の前に置かれた高さ60cmの小さな墓石を見てほしい。上野戦争の翌年、寛永寺の子院の住職2人が密かに付近の地中に埋納したもので、後に掘り起こされ、今の位置に据えられた。

「慶応戊辰五月十五日 彰義隊戦死之墓」などと記された墓石の裏にはこんな漢詩が刻まれている。

昔時布金地 昔時金地を布く
今日草茫々 今日草茫々たり
誰笑千年後 誰か笑う千年後
却憐古戦場 劫て憐む古戦場

昔は絢爛たる伽藍だったところが、今は草ぼうぼうだ。この変わりようを誰か1000年後に笑うだろうか。いや、かえって古戦場として憐れんでくれるにちがいない―。

漢詩の読みも意訳も私の勝手な解釈だから誤っているかもしれないが、切々とした心情がこめられていることだけは間違いない。

吉村昭さんの『彰義隊』(新潮文庫)によると、上野戦争後、上野の山は彰義隊反乱の地として僧はもとより寺男も出入りを禁じられた。わずかに焼け残った寺が大名家に返還され、住職が帰山届を出し、明治2年2月に許されたが、彰義隊の墓に遺族が参ることは禁じられ、それが許されたのは明治6年末だったという。
いくら何でも酷すぎる仕打ちである。が、裏を返せば、それだけ政府が上野の山を恐れたということだろう。それは一体なぜか。

その訳を探るため上野戦争の歴史を繙いてみよう。始まりは鳥羽伏見の戦いに敗れた将軍慶喜が慶応4年2月、朝廷に恭順の意を示すため寛永寺に入って謹慎したことだ。寛永寺を選んだのは、貫首の輪王寺宮が明治天皇の叔父にあたり、朝廷に一定の影響力を持つと考えられたからだ。

慶喜の期待通り、輪王寺宮は慶喜の助命嘆願に奔走した。が、朝廷軍は強硬姿勢を崩さない。それに憤激した旧幕臣らが結成したのが彰義隊である。彼らは慶喜のいる寛永寺に集結し、その数は1000人余りに上った。