105歳で亡くなった片山豊さん「車は単なる移動の手段ではない」 自動車業界への遺言
日産のLEGEND従業員として日産自動車HPでも取り上げられている

つい先日、「フェアレディZ」の生みの親として知られる片山豊さんが105歳で亡くなった。これまでに何度かお会いして、戦前の満州赴任の話や自動車産業論をうかがった。車をこよなく愛する「カーガイ」だった。最後にお会いしたのは5年前、100歳の時だった。片山さんのご冥福を祈りつつ、片山氏の人生を振り返ってみたい。示唆に富む話が多かった。

 第1回「東京モーターショー」開催に尽力

片山氏は1935(昭和10)年、慶応大学を卒業して日産自動車に入社。当時の日産は、その2年前に設立されたばかりだったが、当時としては珍しく片山氏には渡米経験があり、自動車産業の将来性を感じての入社だった。日産は「日本産業」の略。鮎川義介氏が創設した財閥企業「日本産業」の自動車部門として設立。鮎川氏は、その日本産業を満州に移転し、満州重工業開発を置く。このため、片山氏も入社4年後に満州に転勤となった。

そこでの片山氏の仕事のひとつに、都市づくりも含まれていたが、関東軍とよく衝突したそうだ。たとえば、住宅づくりでは、片山氏は家族がゆったり住めるスペースが必要と考えていたのに対して、関東軍は寝る場所さえあればいいという考えだったそうだ。そして、道路を整備しようとしたら、満州鉄道の権益を侵すうえ、防衛上、敵に利用する可能性があるため、道路の建設は認められなかった。このため、道路がなくてもよく走る車を開発しろとの難題を押し付けられたそうだ。

しかし、片山氏が国境付近に関東軍と視察に出かけると、道路ができていたので、その理由を尋ねたら、日本軍が攻め込むための道路であると説明されたが、逆に攻め込まれた時には利用されるリスクがあるのに、そのことに軍人が気づいていなかったという。

片山氏はこう語った。「満州建国で言われていた、複数の民族が共存共栄する『五族協和』なんて嘘っぱちだということがすぐに分かった。複数の民族がいて、複数の言葉が通じるスイスのような国ができるのかと思っていたが、単なる軍人の傀儡政権で、関東軍は威張っているだけで、国を経営するという発想がなかった。やっていることは、ちぐはぐなことが多かった」

すぐに満州がいやになった片山氏は社長に直訴して東京に戻してもらった。満州自動車東京事務所に戻り、出張扱いで勤務する特例が許された。そこでの仕事の一つが採用だった。この点については、『黎明』(角川書店)の中で、こう悔いている。

「私の罪は重い。自分が満州に失望して帰国したにも拘わらず、それでも彼の地へと青年たちを送り込まなければならなかった。私は300人もの青年達を死への旅へと誘いながら、私自身は二度と満州に渡ることはなかった」

日本は敗戦を迎え、終戦直後の混乱期に片山氏は日産財閥の造船会社で勤務するが、日産自動車販売の設立によって、再び日産に呼び戻され、そこでの役職は宣伝課長だった。当時、同僚からは「宣伝はチンドン屋がやることだ」と馬鹿にされたので、片山氏は「本来は社長がやる仕事ですよ」と反論したそうだ。

片山氏は各社と連携しながら自動車ショーの開催に向けて精力的に動いた。1954(昭和29)年、日比谷公園で「第一回全日本自動車ショー」が開催されるが、これが現在の「東京モーターショー」の前身である。

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