特別レポート 阪神大震災から20年名将・仰木監督の死から10年 プロ野球オリックス・バファローズ男たちの「約束」
——優勝の準備はできた

阪神・淡路大震災が発生した'95年、パ・リーグ制覇のミラクルを起こした男たちは現在、コーチとして後進の指導にあたる。当時を知らない選手と再び美酒に酔うため、男たちは「約束」を果たす。

あの日のことは忘れない

阪神・淡路大震災からちょうど20年となった1月17日。オリックス・森脇浩司監督は神戸市内のほっともっとフィールド神戸で、他の球団関係者約60人とともに、黙祷。スーツ姿で頭を垂れた指揮官の低い声に、並々ならぬ覚悟がにじんだ。

「フロントも現場も一丸となって優勝を実現することが、今年の任務です」

最初の準備となる宮崎キャンプ。森脇と覚悟をともにする4人のコーチの姿があった。福良淳一・ヘッドコーチ、星野伸之・投手コーチ、小川博文・打撃コーチ、そして今季から就任した平井正史・二軍投手コーチである。福良が4人の思いを代弁する。

「20年前、ファンと一体となって優勝をもぎとった体験を、今の選手に味わわせてあげたい。昨季は勝率2厘差でソフトバンクに屈しましたが、その悔しさをどう受け止めるか。絶対に日本一にならなければいけない」

それは神戸のファン、そして10年前に逝った恩師と交わした「約束」でもあった。

'95年1月17日。平井はプロ2年目を迎えるオフを、神戸市内にあるオリックスの若手寮・青濤館で過ごしていた。

「あの地震は衝撃でした。どんな揺れだったか、説明ができない。『地震があったら逃げろ』とよく言われますが、あの揺れでは立つことすらできない。揺れが収まるまで待つしかなかった。水が止まり、食事も出なくなり、寮は閉鎖されました」

平井は当時交際していた夫人の神戸市内の実家に身を寄せたが、どこの家も生きることで精一杯。当時、主力内野手だった小川も、西宮市内で被災した。風呂に1週間入れず、水洗トイレを流すための水の確保に奔走していた。

「野球で何とかしよう、という気持ちに、すぐにはなれなかった」(小川)

監督就任2年目だった仰木彬は震災当日、監督会議出席のため滞在した東京で、戦時中の焼け野原を思い出させる神戸の光景をテレビで目の当たりにした。神戸に一刻も早く戻りたいが、交通網は復旧のメドすら立っていない。10日後、義援金を渡すためにようやくたどり着いた神戸市役所で、生活するのに精一杯のはずの同市民から「頑張ってください」と声をかけられる。仰木は思った。

「優勝して、神戸の人たちを勇気づけなければ」

震災から2週間後にはじまった沖縄・宮古島キャンプは、全国8空港から現地集合で自主参加の形式。欠員なく集まった選手たちの前で、仰木は「優勝しよう」という台詞はあえて胸の中にしまい、飄々と「とりあえず、やろか」と語りかけた。練習も各自が通常、自主トレ期間中にやる体力強化の内容に終始。出遅れは明らかだったが、仰木はマイペース調整を優先させた。当時、左のエースだった星野が明かす。