読書人の雑誌『本』
高田文夫『誰も書けなかった「笑芸論」 森繁久彌からビートたけしまで』---私の「笑芸」60年史

元気になってこうやって本が出せるというのが何より嬉しい。そして、“読書人の雑誌”とコピーのついた「本」にも、こうして書かせてもらえるのだから二重の三重、五重の塔の喜びである。

アラッ、また何か余計なことを言いました。まだ、ある意味リハビリ中なものでお許し頂きたい。二六年間ずっとやっているニッポン放送の「高田文夫のラジオ ビバリー昼ズ」では、心ある方々は陰で、「ラジオ リハビリ昼ズ」などと呼んでおります。なんと言われようと、書かれようといいのです。私は今たしかにこうして生きて、笑っているのですから。

思えば、あれはたしか・・・・・・2012年の4月11日、夕方、家でいきなり倒れたのです。すぐに家内が気付いて救急車。不整脈で心肺停止8時間、四回止まったそうです。母校の大学病院へ運ばれたことや、夜の八時前でお医者様がまだたくさんいらしたことやら、奇跡に奇跡が五重塔で重なって、私は帰ってきました。

集中治療室に2ヵ月半、意識は3週間ありませんでした。何もわからないうちに大手術。気がついたら、私の身体はあらゆる場所が手術の痕でジグソーパズルのようになっておりました。

意識不明の間、医者も他人との面会など絶対認めず、ベッドの横にいてくれたのは家内と二人の息子だけです。

人の口には戸を立てられず、噂は広まり、「死んじゃったらしいな」「少し静かになっていいんじゃない」「戻ってきてもしゃべらないし、何も書けないらしいよ」「冗談なんか、もう言えないんじゃないの」、人が知らない間にみんな言いたい放題。あとから聞いたら「あの時ネットはすごかったよ」と、ビートたけしのバイク事故の時の噂と同様だったそうです。

しかし、不死鳥の私は残念ながら帰ってきちゃったのでありました。まさに“たけしと高田”憎まれっ子世にはばかるの図であります。

その後、心配した仲間が“さんぽ会”を作ってくれて、一緒に歩いたりしながら社会復帰をねらっている頃、親しくしている講談社のS氏が、「リハビリがてら何か書きませんか。毎月少しずつでいいですから」と声をかけてくれたのです。

脳味噌の確認作業という意味も込めて、私の好きな喜劇人たちの話を、私だけが体験したことのみで書きつづってみようと思いました。

考えてみれば、渋谷で生まれて世田谷に育ち、下町なんかではなく、あの頃のモダーン、シャレた笑いを人一倍体験、味わってきたのが私だと自負しております。