第112回 藤山愛一郎(その三)選挙資金調達で財産を使い果たす。だが、「いささかも悔いは残らない」

藤山愛一郎が岸内閣の外相として入閣したのが、昭和32年7月、政界引退を表明したのが50年9月。この間に果たしてどれだけの金を使ったのか---。
まずは、昭和33年5月の総選挙である。この選挙で愛一郎は議席を獲得したが、『政治わが道 藤山愛一郎回想録』では選挙資金について、こう記されている。

「まったくの素人だったこともあって、かなりの額を注ぎ込まねばならなかった。選挙通と自称する、いわゆる選挙ゴロのブローカーが寄ってたかって『この地区はいくら票が出るから、このくらい出しなさい』といって持っていく。(中略)選挙が終わった後でもまだ、ブローカーたちは『あなたのために、部屋を借りて運動した』などといって、部屋代や電話代、自動車賃などのツケを回してきた」

具体的にいくらとは書かれていないが、かるく1000万円は超えたのではないだろうか。大学卒の初任給が1万3000円の時代である。

選挙後、愛一郎は岸とともに日米安全保障条約改定を推進した。
昭和35年、岸は訪米し、新条約の調印とアイゼンハワー大統領訪日で合意。その後の安保闘争は周知の通りである。

まだ安保改定の国内調整が進んでいるさなか、当時自民党の幹事長だった川島正次郎が愛一郎の事務所を訪れ、「安保をPRしなければならない。カネを出してほしい」と言い、1000万円を出したら、翌週また来て「もう1000万円・・・・・・」と、さらに1000万円持っていったという。

前回書いたが、愛一郎は政界に転出するにあたり、会社の全役職から手を引いた。このため、月収は20分の1に減った。政治にかかわる費用は全て自分の株、土地、家を売ることによって、まかなわれていたのである。

最初に手放した株は、日本ナショナル金銭登録機の株であった。愛一郎がアメリカの企業と合弁でつくった会社で、100万株近く持っていたのを、外相になって外資系会社の株を持っているのは好ましくないと、早い時点で全て手放している。

岸退陣に際して後継者問題が生じ、総裁選が行われることになった。
立候補したのは、大野伴睦副総裁、石井光次郎総務会長、松村謙三、池田勇人通産相と愛一郎の五人。直前に大野と松村が辞退して三人になった。
愛一郎が立候補したのは岸の進言があったからで、そのため岸に「渡すべきものは渡した」のだが、そのたった2日後に、「党内をまとめるために降りてくれ」と言われる。

結局愛一郎は岸の反対を押し切って立候補し、池田勇人に敗れた。
数1000万円はあったと思われる、「渡したもの」は返ってはこなかった。

ピカソ、ルノワール・・・・・・秘蔵の絵画も手放して

総裁選がきっかけとなって、党内に藤山派が誕生し、「藤友会」と名づけられた。
この派閥がまた、金喰い虫となった。

「同志の選挙の応援以外に、盆、暮れには慣例となっている『中元』『モチ代』がいる。それに、総裁選挙のときには、こちらの陣営の人たちに『活動費』を渡さなければならない。このような場合の『金一封』の単位は、最初のころの30万円から100万円、佐藤政権になってから、そのベースが少なくとも2倍にはなった」(同前)