『ふたつの震災』 阪神・淡路の20年から
【第6回】被災地に「しあわせ運ぶ」歌の物語(後編)

取材・文/西岡研介
20年を迎えた阪神・淡路大震災の慰霊のつどいで歌う森祐理さん

阪神・淡路大震災からちょうど20年を迎えた2015年1月17日午前5時46分。神戸市役所すぐ浜手の東遊園地に集まった1万5000人近い人びとが一斉に黙祷を捧げた。

1分間の黙祷が終わっても続く静寂の中、「慰霊と復興のモニュメント」の石段の最前列に並んでいた歌手の森祐理さんが一歩前に出ると、会場のスピーカーから『しあわせ運べるように』の前奏が流れ、彼女の独唱が始まった。

モニュメントには、震災で亡くなった神戸市民ら約4900人の名前が刻まれている。今年はそこに、被災者支援や復興に尽力した2人の名が特別枠として新たに加わった。仮設住宅で高齢者の見守りや災害看護を続け、東日本大震災の被災地でも活動した黒田裕子さん(昨年9月に死去)。阪神・淡路の震災発生当時の兵庫県知事で、引退後も震災復興事業に関わり続けた貝原俊民さん(昨年11月に死去)。2人の死去は、20年という歳月を物語っている。

森さんがこの「阪神・淡路大震災1.17のつどい」で、『しあわせ~』を初めて独唱したのは5年前の2010年。当時は「つどい」の委員で、後に委員長を務める白木利周さん(72)に依頼されたのがきっかけだった。白木さんは東灘区の自宅が倒壊し、神戸大学の学生だった長男、健介さん(当時21)を亡くしていた。その白木さんからのたっての願いで、森さんは毎年このつどいで、この歌を独唱するようになった。

森さんが語る。

「実は『1.17のつどい』での独唱というのは、歌手にとって厳しい状況なんです。なにしろ真冬の早朝ですし、極寒の野外で歌わなければならない。さらに最初の年は伴奏も使用できず、アカペラ(無伴奏)でした。

けれども、震災で亡くなった弟の葬儀をきっかけに、祈りをこめて魂で歌えばきっと何かが人の心に届く、と思うようになりました。だからやはり、どれだけ過酷な条件であってもお引き受けしようと思ったんです」

その弟の葬儀からもちょうど20年──。

記者になるはずだった弟の死

震災当時、神戸大学法学部の4年生だった弟の渉さん(当時22)は、東灘区本山中町の木造2階建てアパートに下宿していた。前年の秋には読売新聞社への就職が内定し、卒業後は新聞記者として活躍するはずだった。

当時、森さんは東京に、両親は大阪府堺市の泉北ニュータウンに住んでいた。地震発生から丸1日が過ぎても、渉さんからの連絡がないことを心配した父親の茂隆さん(82)は18日朝、彼の安否を確認するため自宅を出た。電車が通っていたのは阪急の西宮北口までで、徒歩で東灘に着いた時は既に昼を過ぎていた。

渉さんの下宿先のアパートに着くと、1階が完全に潰れ、2階部分が地面に乗っていた。渉さんの部屋は1階にあった。「彼のバイクが見当たらないから、逃げて無事だと思いますよ」とアパートの家主は言った。が、悪い予感がした茂隆さんは、家主に頼んで救援を呼び、アパートの中に入って調べてもらった。すると地面に乗ったアパート2階の瓦礫の中から、人の足が出ているのが見えた。近所の人や自衛隊も駆けつけ、総がかりで2階部分を持ち上げた。3時間後、ようやくその足の主が見えた。渉さんだった。

「つい先日、父がポツリと漏らしたんです。『実はな、大家さんに戴いた使い捨てカイロで渉の足をずっと温めていたんだ』って。渉の遺体は、検死が済むまでは勝手に連れて帰れなかったらしく、押し潰されたアパートのそばで何時間も遺体搬送の車を待っていたそうです。

その後、遺体安置所になっていた神戸商船大学(03年に神大と統合)で検死が済んで、翌日には堺の自宅に連れて帰ることができたのですが、その夜、父は商船大で、渉の遺体と一晩過ごしたそうです。その時、渉が裸足であまりに寒そうだからと一晩中、彼の足をカイロで温めていた、と。

父は震災前から決して言葉数の多い人ではなかったんですが、震災後はさらに無口になりました。震災を報じる新聞も読まず、ニュースが流れると消していました。そんな父が10年、20年経って『実はな……』と、わたしたちが初めて聞くような当時の話を語り出したのです」

渉さんが見つかった日の夜、東京の森さんのもとに叔母から電話が入った。「渉ちゃん、アカンかったわ……。すぐに戻ってらっしゃい」。翌朝始発の羽田-関空便で堺の自宅に戻ると、母親の尚江さんはショックで倒れていた。森さんの家族は全員がクリスチャンで、通っていた教会の会員がワゴン車を用意してくれ、渉さんの遺体と茂隆さんを商船大まで迎えに行ってくれた。

「19日の夕方だったか夜だったか、家の前にワゴン車が止まる音がして、扉が開き、それを閉めるバンッという音がしたと思ったら、毛布に包まれた渉の遺体が家の中に運び込まれてきました。なんだかその遺体が丸太のように見えて……。それを見た瞬間、私の心に大きな穴が開いたような気がしたのです」

葬儀は牧師の司式のもと執り行われ、会場となったホールは、渉さんの同級生ら500人を超す参列者で溢れた。渉さんは神戸大で五百旗頭真教授──後に、東日本大震災で政府の「復興構想会議」議長や「復興推進委員会」委員長を務め、現在は神戸大名誉教授──のゼミ生だったことから、五百旗頭氏が弔辞を読んだ。その葬儀に際し、茂隆さんは既に福音歌手として活動していた森さんに、弟のために讃美歌を歌ってくれるよう頼んだという。

「わたしからすれば正直、『自分の弟の葬儀で讃美歌など、悲し過ぎて歌えるはずもない……』という気持ちでしたが、普段は決して娘に頼み事などしない父がそう言うのなら、たとえ泣きながらでも歌おうと心に決め、引き受けました」

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