読書人の雑誌『本』
『華族誕生』の誕生---浅見雅男・著『華族誕生』

今月、講談社学術文庫に入れてもらった『華族誕生』の元本を上梓したころ、何人もの友人、知人たちから、なんで華族なんかに興味をもったのだ、と訊かれた。君は保守反動なのか、それとも―ひねりしたサヨクなのか、あるいは単にハイソ好きなのか・・・・・・。

華族について調べてみようと思った動機は、この本のなかでもふれたつもりだったが、それでもこういった問いをしきりに投げかけられたのは、やはりいまから20年前の当時でも、華族について調べて本にするなど、いかにも時代錯誤と思われたからだろう。

あらためていえば、私が華族に興味をもちだしたのは、維新の元勲岩倉具視の曾孫でありながら左翼運動に身を投じ、しかも自死した若い女性が昭和の初期にいたことを知って、彼女の短い生涯を一冊の本(『公爵家の娘―岩倉靖子とある時代』1991年 リブロポート)にまとめようとしていたころであった。『華族誕生』を著わす4、5年前のことだろうか。

もちろん、華族と称された世襲の特権身分が敗戦前の日本に存在し、公・侯・伯・子・男爵という五つのランクに分かれていたことくらいは、私も知っていた。しかし、公爵家に生まれ育った彼女やその周辺について書くためには、それくらいの知識では不十分で、華族や爵位の成り立ち、彼らの社会的、経済的、政治的状況などに関しても、いくらかは分かっている必要があった。

ところが、それがなかなか思い通りにいかない。戦前に出た数冊の古い専門書を除けば、華族について教えてくれる文献類は、ほとんど見当たらないといっても過言ではなかったのである。結局、四苦八苦しながら、なんとか最低限のことだけを頭に入れ、『公爵家の娘』を世に出すことはできたが、やはり、華族についての自分の無知と不勉強を放っておくことはできず、なんとかしなければと思ったのが、私が華族の研究に手をそめるきっかけであった。

華族についての本格的な資料集めをはじめると、これは予想した以上に面白い作業だった。私は大学を卒業してからずっと出版社勤めをしており、歴史研究の専門家たちのように資料を探索するための訓練も受けていなかったから、それらを調べるのにはとてつもない手間がかかると覚悟していたが、国会図書館憲政資料室や宮内庁書陵部、いくつかの大学図書館などをめぐっただけで、数多くの資料に接することができたのである。

また、そうこうしているうちに、大久保利通の孫にあたる大久保利謙教授(元侯爵)の華族研究をまとめた『華族制の創出』(『大久保利謙歴史著作集』3 1993年 吉川弘文館)という好著も刊行され、私の知識もなんとか蓄積されていった。

となると、今度はそれを整理してみたくなる。しかし、華族に正面からぶつかるのは身の程知らずであることくらいは分かっていた。そこで考えついたのが、華族に関して爵位を中心にまとめてみたらどうか、というアイディアだった。爵位とは要するに華族間のランキングである。とくに元公家や大名のように、長い間、名誉や体面を重んじながら生きてきた華族たちにとっては、何よりも大事なものであり、それが決まる過程などでは、おそらく数々の人間臭いドラマがおきたのではないかと思ったのである。私は会社では雑誌の編集にたずさわっていたから、そういうことには少し鼻がきいた。かくして、『華族誕生』は誕生し、このたび、また形を変えて出版されるとの幸運に恵まれたのである。

そして、これも幸運なことに、この小著は書評にも恵まれた。なかでも私が驚いたのは、長尾龍一教授によって『法学セミナー』という雑誌の「今月の一冊」というコラムでとりあげられたことだった。法哲学の碩学である東大教授がなぜ、という驚きもあったが、私をよろこばせたのは、長尾教授の文章の冒頭に書かれた、「面白いというより可笑しい本である」との一節だった。本書をお読みくださればお分かりのように、華族たちの爵位をめぐるドタバタぶりは、まさに「可笑しい」の一言に尽きる。長尾教授はそこを的確に指摘してくれたのである。