振り返ればそこに江戸がいる---山根誠司・著『算法勝負!「江戸の数学」に挑戦 どこまで解ける?「算額」28題』

「江戸人」と、とりあえず言い切ってみる。

江戸時代に生きていた人たちの総称、と思っていただきたい。いつの頃からか、筆者は江戸人に懐かしさを覚えるようになった。この人たちは現代の我々とは少し違った感性で生きていたように思える。我らのご先祖様であるにもかかわらず・・・・・・。

極端に言えば、今よりよほど“高尚な”生き方をしていたように感じるのだ。もちろん、昔のことは良く見えるものだし、徒に日本を礼賛する風潮は戒めなければならない。それでもなにか、一本筋の通った生き方をしていたように思えるのだ。殊更に、武士道の美学を持ち出すまでもない。もっと身近な、もっと日常的な行動や習慣の中に、彼らの真骨頂は潜んでいる。

「もらい乳」という言葉があるのか、どうか。私が生まれ育ったのは、鳥取の草深い村だった。ローカル線の終着駅がある街。そこからさらに歩いて一時間(バスは二時間に一本。田舎の人間は歩くのだ)。百名ほどの村人が、肩を寄せ合うように暮らしを営む村。春には鮎が遡上し、夏には蛍が飛び交い、秋には柿が実り、冬には雪が降り積む村。豊かとは言えないが、それだからこそ育まれたつながり。

子供の頃のかすかな記憶に、もらい乳があったように思う。近所のお母さん方から、母乳をもらう習慣。今と違って、赤ちゃんはミルクではなく、母乳で育てることが多かった。母の乳はいつも都合よく出るものではない。そんな時、ご近所のお母さん方がお乳を融通しあうのだ。私も近くのおばさんから、お乳を含ませてもらったように記憶している。一昔前なら、日本中でありふれた光景だったのだろう。いや日本だけでなく、世界中で営まれてきた習慣かもしれない。私は、文字通り村全体で育てられたといってよい。

私はそこに、江戸の名残を感じる。

前置きが長くなった。『算法勝負! 「江戸の数学」に挑戦』(講談社ブルーバックス)のことである。この本は、日本に残る算額絵馬の中から、28問を厳選し解説を加えたものだ。算額絵馬とは、聞き慣れない言葉かもしれない。おもに江戸時代に奉納された、算術に関する絵馬のことだ。たたみ一畳ほどの大型の絵馬に、算術の問題と答、簡単な解法を描いて神社仏閣に掲げたのである。

何のために? 問題が解けたこと、算術の腕が上がったことを神仏に感謝するために。そして娯楽のために。そんな習慣が江戸時代にあったのだ。極めて“高尚な”趣味ではなかろうか。

21世紀の日本で、江戸を感じるのは次第に難しくなりつつある。江戸時代の遺物が少なくなってきているし、様々なフィルターが介在して、実体を見極めるのが意外と困難だ(果たして、時代劇はどれほど「江戸」を反映しているのだろう?)。そんな中で、算額絵馬は格好の素材だ。なんといっても、相手は数学の問題なのだ。フィルターやバイアスが介在する余地は極めて少ない。時代を越えて、生の江戸が浮かび上がる。江戸人と直接知恵比べをする知的興奮が味わえる。そしてそこに、江戸の息吹を感じることができる・・・・・・。

21世紀も10年を過ぎて、日本は国際化の荒波にいっそうさらされつつある。「国際化とは、自分自身の国を振り返ること」とはよく言われる。確かにそうなのだ。他者と付き合うためには、確固たる自分自身が必要なのだ。その根拠をどこに求めるべきか・・・・・・。安心してほしい。振り返ればそこに江戸がいる。和算の栄光を高々と掲げた江戸人がいる。

みなさんも、江戸の数学の世界を覘いてみてはいかがだろう。問題は解いても解かなくてもご随意に。問題以外にも、和算や算額についてのエピソードを充実させてある。そこだけ拾い読みしても、充分に楽しめると思う。この本を片手に、江戸の算術世界を旅してみてください。意外と手強いかもしれませんが・・・・・・。

(やまね・せいじ 作家・科学ライター)
読書人の雑誌「本」2015年2月号より

山根 誠司(やまね・せいじ)
1963年鳥取県生まれ。作家。科学ライター。東京大学工学部電子工学科卒。住友電工、東京大学先端科学技術研究センターを経て文筆業へ。歴史と科学の関わりを独自の視点から分析・研究。特に江戸から明治にかけての、数学・科学技術の変遷に造詣が深い。趣味はサッカー観戦と算額の問題を解くこと。共著に『不思議な体の雑学読本』(三笠書房)、『プロフットボーラーの家族の肖像』(カンゼン)等多数。

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山根誠司・著
『算法勝負!「江戸の数学」に挑戦 どこまで解ける?「算額」28題』
税抜価格:860円

数学の問いを記した絵馬を神社仏閣に掲げ、公開の場で算法勝負をする「算額」。大名から庶民まで、身分の上下を超え当時の数学ファンがこぞって熱中しました。本書では今も記録に残る算額から、オリジナリティ溢れる問題を厳選。数学を娯楽として楽しんだ粋な江戸人から現代人への算法勝負です。ベストセラー小説『天地明察』の冲方丁さんも挑戦、「とにかく楽しい! これは江戸時代の技術であり『娯楽』です」

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