『ふたつの震災』阪神・淡路の20年から
【第3回】再生の街描いた作家の「残り香」

取材・文/松本創

冷たい風が吹き抜ける師走の公園に朗読の声が響く。慕わしい友のありし日の姿をその場に思い描くように。

新開地の鉄塔(Office Ittetsu提供)

〈かつての新開地の繁華ぶりは、今も神戸人の語り草である。明治末、旧湊川を埋め立てた空き地に誕生した新開地は、日本有数の歓楽街となり、その賑わいは昭和30年代まで続いた。

しかし昭和43年、シンボルの神戸タワーの解体とともに衰退の一途をたどる。

湊川公園から、本通りを見ると、アーケード上にそそり立つ謎の鉄塔がある。かつて、ここにグリコの看板が掛かっていた。万歳姿で走る、例のランニング男。韋駄天は、時代の変化を察し、フレームだけを残して、早々に、どこかへ走り去った〉

短くも詩情に富むこのエッセイは、その風景をとらえたモノトーンの切り絵に添えられていた。画・文とも作者は神戸出身の切り絵作家、成田一徹さん。2012年10月14日、63歳で亡くなった。カッターナイフ1本で精緻な線と陰影を切り出した作品に見覚えのある人も多いだろう。とりわけ、彼の原点でありライフワークであったバーの風景を切り取った作品は名高い。

エッセイを読み上げたのは、甲南大学文学部教授の中島俊郎さん(65)。互いになけなしの金で街を飲み歩いた20代の頃、神戸・元町のバーで同い年の成田さんと知り合い、以後35年にわたって付き合った親友である。取材現場にも数多く立ち会い、死後遺された数千点に上る作品を友人らと協力して整理するなど、成田さんの創作活動のいちばんの理解者であり、伴走者だった。

喫茶エデン(Office Ittetsu提供)

昨年暮れ、その中島さんを案内役に成田作品の風景を歩くツアーが神戸の新開地・湊川界隈であった。神戸の人間には「楠公さん」と親しまれる湊川神社。歳末の買い物客でいつにも増してにぎわう湊川や東山の市場。湊川公園から新開地の商店街を経て、戦後まもなくの開店当時から変わらぬたたずまいの喫茶店「エデン」。最後に、親子4代で100年あまり続く船形建築の焼き鳥屋「八栄亭」。どれも、兵庫区で生まれ、長田区で育った成田さんが幼い頃から親しみ、終生愛してやまなかった場所である。

元町や灘でも行われたツアーは「成田一徹『神戸の残り香』の風景をさがして」と題された。2003年から神戸新聞で連載され、亡くなるまで続いたシリーズ作品──2冊の本になっている──の題名を取った。その連載が始まる2年前、同紙の記者だった私はインタビューで構想を聞き、こんなふうに書いた。

〈長田区の実家には、月に一度帰る。夜、三宮や元町を歩くと、寂しい気分になる。「個性の乏しい街になった」と感じるのだ。そんな思いから、いま一つの企画を温めている。

「神戸が神戸であったころの残り香を探して、作品にしたいと思っているんです。どっしりと構える居留地の古いビル、山の手の名もない洋館、造船所に近い古びた飲み屋街。感傷に過ぎるかもしれないけど、消え行く風景へのオマージュ(献辞)を残したい。ぼくにとって神戸はいつか帰る街。いつも頭の中にある」〉

成田さんが訪ね歩いた風景は、震災で傷つき、多くのものを喪った神戸の街に、それでも残った場所の記憶である。震災から生まれた映画や小説、音楽などの諸作品の中でも最上のものの一つだと私は思っている。

震災体験を分かち合えなかった悔恨

阪神・淡路大震災を成田さんは経験していない。大学院を卒業し、いくつかの職業を経て神戸港振興協会に勤めた成田さんは1988年、38歳の時に切り絵作家として生活するため東京へ移った。95年1月17日の朝は、台東区谷中の自宅にいた。先のインタビューでこう語っている。

〈あの日は、運悪く原稿の締め切りに重なっててね。長田にいる母親の所へすぐにも飛んで帰りたいのをがまんして、カッターナイフを握ったんです。ラジオを聞きながら、下絵を描いて、カッティングにかかるんですが、手が震えてね。後で見ると、その時の絵はすごい下手クソですよ。

何とか仕上げて空港に向かったんやけど、モノレールの中で、どこかに遊びにいく人たちの笑い声が聞こえてくる。東京と神戸の距離をあれほど遠く、切なく感じたことはないよね。今でも、負い目のような気持ちがどこかにある〉

フェニックス号の帰還(Office Ittetsu提供)

テレビに映る神戸の街から立ち上る黒煙。長田区はとりわけひどい、というニュース。実家が炎に包まれる悪夢のようなシーンが頭をよぎった。〈切り絵を生業として十年がたつが、あの時ほどカッターが扱いづらく、不如意な道具だと思ったことはない〉と、後に成田さんは書いている。中島さんも、その時の気持ちをたびたび聞いた。

「彼はね、ものすごいお母さん子だったんですよ。お母さんに手を引かれて歩いた街の記憶をいつも懐かしそうに語っていた。老いたその母親をひとり神戸に残して安否もつかめない。電話はつながらないし、当時は携帯もメールもない。空港へ向かったものの、飛行機もすぐには取れない。最初の日は引き返して、神戸へ帰れたのは3、4日後だったはずですよ。

長田区の実家は全壊判定を受けましたが、お母さんは無事でした。だけど、揺れた時にそばで支えてあげられなかった。すぐに帰ってやれなかった。その悔恨で自分を責め、ずっと彼の心の傷になっていた」

私が震災後最初に成田さんと会ったのは、その年の秋だったと思う。瓦礫の残る街で、友人のイラストレーター、マンガ家と3人展を開くという知らせをもらい、取材に行った。成田さんは復興への思いを込めた「フェニックス号の帰還」という作品をポストカードにして、その売り上げを被災した高校生のための奨学金に全額寄付した。

だが、あの瞬間の恐怖と苦痛をともに分かち合えなかったという心の負い目を、成田さんは神戸の街に対しても抱え続けた。それが震災を生き延びた「神戸の残り香」を探し、記録するという後年の仕事につながった。

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