『ふたつの震災』 阪神・淡路の20年から
【第2回】神戸の「復興」は町に何を残したか

取材・文/松本創
須磨区の千歳公園を訪れた淺野弥三一さん。歩道は広く、背後のあずまやは災害用シェルターになる

「闘うコンサルタント」と呼ばれた行動の人も、この20年ですっかり髪が白くなった。数十メートル行くごとに立ち止まり、痛む足をさする。数年前に大病を患った影響だ。

それでも阪神・淡路大震災の直後から10年あまり足繁く通った町のことは隅々まで頭の中にあって、足取りに迷いはない。なにしろ、焼け野原と化したこの地区を再建させる復興計画を描いたのは彼自身なのだ。行政が提示した計画を押し戻し、住民たちと膝詰めで話し合い、時には反発を浴びながらも、交錯する意見を取りまとめて。

昨年暮れも押し詰まった12月26日。私は都市計画コンサルタントの淺野弥三一さん(72)とともに神戸市須磨区の千歳地区を歩いた。震災復興のまちづくりとは何だったのか。町はどう変わり、生活は今どうなっているのか。それは結局、成功だったと言えるのか、それとも失敗に終わったのか。彼の20年後の「結論」を聞きたかったからだ。

震災後、神戸市が手掛けた土地区画整理事業だけでも11地区約140ヘクタール、同じく再開発事業が6地区約33ヘクタールに上る復興まちづくりを十把一絡げに評することはもちろんできない。うまくいったところもあれば、そうでないところもあるだろう。立場によっても見方は異なる。

私自身、単なる取材者ではなく神戸に20数年暮らす市民の一人として、思うところはある。それは外から来た人が賞賛交じりに口にする「神戸は迅速に、見違えるように復興した」という印象とは違う。むしろ、「神戸が神戸でなくなっていく」ような感覚を覚えている。東京から見れば「地方」と一括りにされるような、どこにでもある一都市になってきたのではないか、と。

しかし、それはそれとして、淺野さんはどう見ているのだろう。彼は、神戸大学大学院で建築を専攻した1960年代から神戸の変貌を見てきた都市計画の専門家である。また、阪神・淡路の震災以前から、災害や公害で傷ついた地域にいくつも関わってきた。1982年の長崎大水害、83年の島根豪雨、90年の雲仙普賢岳噴火。それに、ふたつの大気汚染公害──岡山県の水島コンビナートが引き起こした倉敷公害訴訟、阪神工業地帯周辺の自動車排煙が原因となった尼崎公害訴訟──など。

さまざまな現場で被災者や公害患者と付き合い、じっくり声を聞きながら地域の再生を支援することをライフワークとしてきた。地元自治体をはじめ行政と衝突することもしばしばだったが、「住民が主体でなければならない」という信念を曲げない。そして、逃げない。「闘うコンサルタント」とは、彼のそうした姿勢に周囲が与えた〝勲章〟とも言える。

私は淺野さんと知り合って15年以上になるが、これまで阪神・淡路の震災復興について詳しく聞いたことがなかった。しょっちゅう顔を合わせてはいても、いつも別の用件だった。この日一緒に町を歩き回りながら、彼が震災後に何を考え、どう動いてきたのか、あらためて聞いた。

結論から言えば、淺野さんの評価はこうだった。

「千歳地区の復興の評価? 難しいところやけど、まあよい町にはなったと思います。優・良・可で言えば、優は無理でも、良はもらえるんやないかな。神戸市全体を眺めても、だいたいそんな感じかなとは思う。ただ、今も気になってることはいろいろあって……」

「良」としながらも歯切れはよくない。気に懸かることのほうが大きいように聞こえた。

「戦後」の風景を一掃した震災

千歳地区は須磨区の東端、長田区との区境にある。JR新長田駅の北西部にあたり、震災前は約1200世帯が暮らしていた。1945年3月の空襲で焦土となった後に長屋や十数坪の狭小住宅が建ち並び、そこでは長田を中心に栄えたケミカルシューズの下請け仕事が行われた。材料加工、裁断、ミシン、のり付け、ネーム張り……細分化された工程を、部材が流れ作業のようにぐるっと回り、一足の靴ができあがる。町全体が工場のようだった。

地区の西隣には明治時代に国鉄の車両整備場としてできたJR鷹取工場が広がり、そこに勤める人も多かった。小さな商店街に飲み屋や焼肉屋があって、職人や工員たちでにぎわった。「共同井戸でビールを冷やしてみんなで飲んだ」「煮物や調味料を隣近所で分け合った」という思い出話がいくつも残る。密集する木造家屋と入り組んだ路地。その中に仕事と生活が混在し、濃密な人間関係がある典型的な神戸の下町だった。長田周辺に集まる在日コリアンも多く住んでいた。

震災は、その町を9割がた焼き尽くした。高齢者を中心に47人が犠牲になった。ちょうど戦後50年の年に起こった阪神・淡路の震災は「戦後」の風景を一掃したのだ。千歳地区に限らない。長田区の御菅地区や新長田駅周辺、兵庫区の松本地区、灘区の六甲道駅周辺。地震とそれに伴う火災は、高齢者の多い下町を集中的に襲った。

「最初に千歳へ呼ばれて行ったのは、震災から3カ月半経った連休明けでしたね。何もない焼け跡やった。焼け残った老人いこいの家に地区の連合自治会の有志が集まっていたけど、みんな仮設暮らしやなんかで散り散りになってるから、まずは区役所の住民台帳を繰って、もといた住民に連絡を取るところから始めました。千歳町、寺田町、大池町など計12カ丁あって、2500人ぐらい住んでたと思う。3分の2が借家世帯やったね」

震災後ちょうど2カ月という速さで神戸市が都市計画決定した区画整理事業に、千歳地区も含まれていた。計画案には、震災を機に戦後積み残してきた都市計画を一気に進めようという市の思惑が見えた。再開発で「西の副都心」となる新長田駅前へつながる幅14メートルの幹線道路が地区を貫き、千歳町1丁目はまるごと1.3ヘクタールの公園になる。「安全安心」や「防災」を旗印に、整然とした住宅街を造る。そんな計画だった。

新長田を西の、六甲道を東の副都心とする構想は1986年の「第三次神戸市総合基本計画」に盛り込まれていたが、淺野さんによればもっと前、60年代から市の宿願だったという。

「三宮を中心にして東西に副都心を置き、その背後に北神・西神のニュータウンをそれぞれ作って、地下鉄で結ぶ……そんな構想の下に、僕も大学院時代に絵を描かされたことがある。神戸市役所というのは、戦災復興からの流れで都市計画畑の人間が強い組織でしたから、行政主導の開発志向がもともと根強くあったんです。ポートアイランドがその象徴ですけど、60年代には既に山を削って海を埋め立て、切り拓いた跡には渦森台や高倉台といったニュータウンを造っていた。

都市経営としては先進的やったし、確かにそれでうまくいった時代もあった。だけど、開発で入れ物を造れば人もそこに流れ込んでくるやろうという上からの発想は、やっぱり高度成長期の産物なんですね。それを、戦後半世紀経て社会や経済状況も変わりつつあった震災後にもやってしまった。また、市に都市開発の力量があったために、できてしまった。都市計画局に技術系の職員を総動員し、OBもかき集めて500人ぐらいの体制で絵を描いていたからね」

震災復興には、無秩序な建物の再建を抑えつつ、まず被災者の住宅を確保するという時間との競争がある。その意味では、スピードを重視し、いち早く都市計画の網をかけた神戸市のやり方に一理はあった、と淺野さんは言う。ただ、そこには住民の暮らしや地域社会をどう再生するかというビジョンが決定的に欠けていた。市民への情報提供は不十分で、縦覧時の意見受け付けもごく形式的なものだった、と。

ただ、区画整理の詳細については、市の出してきた計画案をたたき台に、自治会が母体となったまちづくり協議会が住民の意見や要望をまとめて提案し、反映させることになっていた。淺野さんは、その住民提案を作るため千歳地区に選任されたというわけだ。

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