高倉健、菅原文太と付き合った暴力団幹部は「逃げ切り世代」。
それより若い「反社」の今後、どうなる?

高倉健主演『日本やくざ伝 総長への道』(1971年マキノ雅弘監督)のポスター  photo Getty Images

東京五輪のころ、暴力団は18万人

東映やくざ映画のスタートは、1963年に封切られた「人生劇場 飛車角」だった。尾崎士郎の小説「人生劇場」のなかの「残侠編」でシナリオを構成、飛車角を鶴田浩二が演じ、舎弟の宮川に高倉健が扮して大ヒット。翌64年から鶴田は博徒シリーズ、高倉は日本侠客伝シリーズなどを開始、東映に任侠映画が定着した。

この頃日本は、64年10月10日開幕の東京オリンピックに向けて首都高速道路や東海道新幹線の建設工事を進めており、高度経済成長の足取りを確かなものにしていた。その成長に合わせて膨張したのが暴力団で、構成員と準構成員の数は18万人を突破、ピークを迎えていた。

東映やくざ映画といえば、鶴田、高倉に加え、関東テキヤ一家シリーズで2人の後を追い、73年に封切られた「仁義なき戦い」で実録路線をリードするようになった菅原文太である。鶴田は87年6月、62歳の若さで死去するが、昨年11月、高倉が83歳、菅原が81歳で亡くなった時に年齢を重ね合わせると、89歳だったことになる。

東映やくざ映画のリアルさは、鶴田、高倉、菅原の3人が、暴力団幹部に映画ではしきたりや所作(立入振る舞い)を学び、歌謡ショーやキャバレー出演といった興行では、彼らの仕切りで動き、ある意味で一体感を持っていたからだ。従って、3人と親密につきあった暴力団幹部も同年代。70代、80代が中心で物故者も少なくない。

高倉、菅原と相次いで亡くなってから、私は、『週刊ポスト』で「高倉健・菅原文太と暴力団」を執筆することになり、3人とつきあいがあった暴力団関係者を訪ね歩いた。

彼らは、やくざ映画が盛りで、映画俳優たちと飲み歩いていた頃、20代、30代の遊び盛りだった。その頃のエピソードは、実に豊富で記憶は鮮明。なにより、「いい時代だった」と、皆が等しく振り返った。

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