『ふたつの震災』 阪神・淡路の20年から
【第1回】東北と家族へ宛てた父の卒業論文

取材・文/松本創

東日本大震災からひと月経たない2011年4月8日、日本心理臨床学会のサイトに一編の手記が掲載された。『被災地のみなさまへ』と題した一文は、遺族へ向けてこう語りかけていた(→PDFはこちら)。

〈おそらく現在のご心境としては、残念さと孤独感によって断腸の思いだとお察しします。私も今でこそこうして皆様にお話出来ますが、当時はとても人と話をしたり(する気になれず※筆者補足)、他人からのアドバイス等にも無関心でいました。ボランティアの皆様の援助さえも気に障ったことも、記憶しています。そうした心情は仕方なく、周りの人には許してもらいましょう〉

〈今現在で、自分の頑張れる期限を決めて(一週間が限度とか、一ケ月、一年、十年等……)とりあえずそこまで頑張って、またその時点で将来のことや、頑張る期限の延長とかを考えて頂いたら良いかと思います。今の心境で見えない将来の為に頑張り通すと云うのは、とても難しく無理だと思います〉

筆者は藤本忠雄さん(65)。1995年1月17日、46歳の時に阪神・淡路大震災で妻を亡くし、中学生だった2人の息子を男手で育ててきた。小さな会社を経営していたが60歳で引退し、当時は神戸山手大学で心理学を専攻する社会人大学生2年目だった。学校関係者を通じて寄稿の依頼を受けたが、ずいぶん迷った。それまで、自分が震災遺族であることを公言するのを避けてきたからだ。

メディアの取材やネットでの発信はもちろん、遺族のつどいや追悼行事に出ることも、ボランティア支援や心のケアなどの社会的サポートを受けることも一切なかった。反感を持っていた、と言ってもいい。「そんなことで何が救われる」と。

悩んだ末に綴ったメッセージには、そうした藤本さんの震災体験が反映されている。だから、通り一遍の励ましや安易な同情・共感ではなく、「絆」や「つながり」を押し付けることもなく、東北の被災地に響いた。その反響がまた、藤本さんに自分の来た道を振り返らせ、さらには進む道も決めることになる。

昨秋、私はあるきっかけで藤本さんと出会った。手記掲載から3年半が経っていた。そして、彼がこれまでほとんど語ってこなかった阪神・淡路大震災からの20年を聞かせてもらった。

不信を生んだ小さな心の引っ掛かり

阪神・淡路の震災当時、藤本さんが住んでいたのは兵庫県芦屋市三条南町。JR芦屋駅から西へ10分ほど歩いた神戸市東灘区との市境に建つ、古い2階建て木造アパートだった。ニュース映像で繰り返し流れた阪神高速道路の倒壊現場から1キロと離れておらず、あたり一帯の家屋が軒並み倒れた。

1階の一室で寝ていた藤本さんは、妻の昭子さん(当時47歳)、中学2、3年だった長男と次男の一家4人で生き埋めになった。暗闇の中で名前を呼ぶと、昭子さんだけ返事がなかった。

大学のカフェテラスで、3・11直後の東北へ送ったメッセージを読み返す藤本忠雄さん

「地震が起きた5時46分、家内は息子たちの弁当を作るためにちょうど起きたところやったみたいです。探し当てた懐中電灯で照らすと、うつ伏せの背中に天井の大きな梁が乗っていて、とても動かせない。息子と3人でなんとか這い出した時、外はもう明るくなっていました。

だけど、警察や消防は来ません。自衛隊もいない。周りにはたくさん人がいたけど、遠巻きに眺めるだけで誰も手を貸してくれない。自分たちで大工道具を見つけ、太い梁を切って家内を搬出するしかなかった。みんな、自分のことで大変やったのかもしれんけど……」

震災直後の話を順を追って聞いていくと、藤本さんにはそんな小さな心の引っ掛かりがいくつもあった。

通りすがりのトラックの荷台に乗せてもらい、やっと妻を運び込んだ病院では「まず診察券を作ってください」と言われた。遺体と負傷者が床を埋め尽くす中でだ。芦屋警察署の道場で妻の遺体と数日間過ごしていると、ヘリで京都へ運んで火葬できると市役所から知らせがあった。ところが、ヘリの発着場となったグラウンドへ行ってみると、遺族は同行できないという。遺体だけを何体かまとめて運び、焼き終わったら遺骨だけを戻すから、と。

立ち会いもできない、骨も拾えない、それで弔いと言えるのか。考えた末に「やっぱりうちはやめます」と断った。小学校の避難所では、家は失ったものの全員無事だった家族と同室になり、会話が耳に入ってくる。「命だけは助かってよかったなあ」と喜び合う声が。

あれだけの災害だから混乱も仕方がない、と頭ではわかる。けれども、その一つ一つが藤本さんにはこたえた。それが行政や周囲への失望となり、積み重なって不信へとつながっていった。

「ボランティアの人たちも善いことをしてくれてるのはわかる。だけど、そうやって被災者を手助けできるのは帰る家があるからやろう、誰も亡くしてないからやろうと、つい考えてしまうんですね。話しかけられるのが煩わしい。同情されると腹が立つ。そんな余裕のある人間に俺の何がわかる、と。自分の性格もあるけど、とにかく正常な精神状態ではいられなかったから」

東北の津波の直後、「ボランティアなんて自己満足に過ぎない」とするボランティア迷惑論が、阪神・淡路の〝教訓〟として広まった。避難所では「心のケアお断り」という紙が貼り出されたところもあるという。支援活動をすべて否定するような主張に私は与しないが、そういう反発が起こる事情は理解できる。社会的には「ボランティア元年」とされ、「心のケア」が広まる契機になったといわれる阪神・淡路が残した問題を、藤本さんの体験談はあらためて語っている。

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