[障がい者スポーツ]
伊藤数子「2020東京パラリンピックのレガシーとは?」

グッドマン博士<左>と中村先生/写真提供: 社会福祉法人太陽の家

 10月、東海道新幹線50周年の行事が様々なところで催されました。その際、必ずと言っていいほど、1964年の東京オリンピックの話題や写真が見られました。2014年は、64年に開催された東京オリンピック・パラリンピックから、ちょうど50年というメモリアルイヤーでもあったからです。

 新幹線や首都高速道路、羽田空港からのモノレールなど、64年に行なわれたインフラ整備は、東京オリンピックのレガシーとして、日本の社会を支え続け、経済発展に寄与したことは周知の通りです。では、そのオリンピックの1カ月後に行なわれた東京パラリンピックで残されたレガシーは、という問いにどのくらいの人が答えられるでしょうか。

 先日、あるイベントで50年前の東京パラリンピックでボランティアをした方の体験談を聞く機会がありました。その方は、当時大学生で、東京パラリンピックでは日本人選手の介助をしたり、英語が堪能だったので、通訳として外国人選手の話を日本人選手に伝えることもあったそうです。彼女によれば、当時の日本人選手は同じ障がい者であるはずの外国人選手の言動に、大きな衝撃を受けていたというのです。

 実は以前にも、同じような話を本で読んだことがあります。“日本の障がい者スポーツの父”でもあり、東京パラリンピックでは日本選手団の団長を務めた故・中村裕先生が遺された話です。当時、日本では障がい者がスポーツをするということはまったく考えられないことでした。「安静が必要」という考えが常識とされていたからです。そのため、障がい者は一生病院や施設のベッドで過ごすことになり、それこそ「人生が終わる」という感覚だったことでしょう。

 そんな常識を覆したのが、中村先生でした。中村先生は英国に渡り、“パラリンピックの父”である故ルートヴィヒ・グッドマン博士から学んだ障がい者スポーツの考えを日本に持ち帰り、普及に尽力したのです。そして東京パラリンピックでは団長となり、自らの病院に入院していた患者も選手として派遣しました。

 招集された53名の選手が海外の選手に対して、彼らが日常的にスポーツをしているということ以上に驚いたことがありました。それは障がい者が職を持ち、結婚をして家庭を持っているということでした。入院生活をしている自分たちとはあまりにもかけ離れた生き方に、言葉を失ったというのです。さらに、パラリンピック期間中の外国人選手の行動にも驚きを隠せませんでした。「せっかくはるばる日本に来たのだから」と言って、試合を終えた選手たちは銀座などに遊びに出かけたそうです。また、観光や買い物のために、タクシーを呼んでいる外国人選手を見かけただけで、「障がい者がタクシーを呼ぶなんて信じられない……」と目を丸くしていたそうです。病院や施設だけが行動範囲のすべてだった日本人選手には、とても考えられないことだったのです。