これが俺のプロ野球人生だから「太く、短く」それでよかった 誰に何と言われようと、悔いはない……
山口高志工藤幹夫 与田剛 伊藤智仁 田村勤ほか
週刊現代 プロフィール

「入団1年目のキャンプのシート打撃を見た時は驚いた。直球がうなって、高めで空振りがとれた。往年の山口さんみたいでした」

当時の星野仙一監督は与田を守護神に抜擢。MAX157㎞の直球で、いきなり50試合に登板し、31セーブでセーブ王に輝いた。オフは、サイン会や野球教室などで体を十分に休められず、2年目の異変を招いた。'91年、一軍投手コーチに就任した佐藤道郎が振り返る。

「豪州キャンプで与田と話をすると、『プルペンに入る気持ちが出てこない』と言ってきた。無理はさせなかったが、(豪州キャンプ後の)沖縄でも球速は140㎞ちょっと。球に前年の勢いがなかった。体調があがらず、色々な医者に見てもらったら、背中がへこんでいた。痛みはなかったけど、筋肉の異常のようで、原因がわからなかった」

背中を無意識にかばい、フォームのバランスも崩れた。下半身をうまく使えるよう、ナゴヤ球場の上段の観客席からグラウンドに向かって投げ降ろし、ひじの使い方を思い出すため、竿でやり投げもした。それでも1年目の剛球は戻らず、この年はわずか2セーブ。3年目は23セーブと復調の兆しを見せたが、4年目以降は右ひじ痛に苦しんだ。移籍先でも復活はかなわず、'00年に引退。4年目以降の一軍登板は、わずか28試合にとどまった。水谷は言う。

「与田は引退後、私にあいさつに来てくれたけど、すっきりした顔だった。解説者となった彼が、テレビでケガをした者でないとわからない選手の心理を語っているのを見ると、『乗り越えられたのかな』と思う」

本当はもっとやれたかもしれない、どこで歯車が狂ったのだろうか—そんな思いもあったかもしれない。だが、現実を受け入れ、前を向いたからこそ、今の与田がある。

水谷は、'87年、プロ初登板で巨人を相手にノーヒットノーランを達成した中日の近藤真市(46歳)の獲得にも尽力した。その巨人戦を迎えた時、中日は先発陣がコマ不足に陥り、試合開始約2時間前、突然、ルーキーの近藤に先発を通告。プロ初登板で、快挙を達成した。

1年目の'87年は4勝、2年目は8勝したが、2年目の球宴以降から肩やひじに異変を感じ、初登板時の腕の振りが影をひそめた。プロ3年目に左肩を手術。以降は1勝もできなかった。水谷は、近藤が手術した翌年、二軍投手コーチとして接した時、忘れられない光景がある。

「肩の痛みが消えても、本来のボールが投げられなかったのが歯がゆかったのでしょう。キャンプ地・沖縄のブルペンで泣きながら投げ続けていた。弱音ははかないけど、あの涙が彼の思いをすべて、物語っていた」

近藤には股関節が硬いという弱点があったが、それを補う下半身の筋力が、力強い腕の振りを生んでいた。この沖縄キャンプで、近藤は、肩の痛みが出ない左腕の位置を探し、一時サイドスローにも挑戦。それでも腕の振りや球威は戻らなかった。

引退後、「あれ(ノーヒットノーラン)がなければ、もう少し投げられたのでは」と聞かれると、必ず、こう答えた。