これが俺のプロ野球人生だから「太く、短く」それでよかった 誰に何と言われようと、悔いはない……
山口高志工藤幹夫 与田剛 伊藤智仁 田村勤ほか

メジャーの流儀が導入され、今はプロ選手も自身の体調管理を最優先にする。だがかつては、この一試合、この一瞬にすべてを懸け、腕を振る男たちがいた。彼らの野球人生を、誰が否定できるのか。

俺にはこの道しかなかった

その名の通り、高い志は意地でも曲げない。身長169㎝の小柄な体全体を目一杯使い、全力で右腕を振りぬいた。'75年に阪急に入団した山口高志(64歳)は、球速を測るスピードガンがない時代、時速160㎞は出ていると言われた剛速球で'75~'77年の阪急日本一の中心にいた。

しかし、その後、勤続疲労による負傷に泣き、'82年に引退。実質4年間だけの活躍で終わった現役生活を、こう振り返る。

「太く、短く、と呼ばれることは、その通りやと思います。もちろん太く、長く現役を続けられたら、それが一番いい。でも、そのためにはプロの世界では、活躍せんといかん。活躍が持続して初めて『長く』になるわけです」

社会人の強豪・松下電器から入団した'75年、山口は32試合に登板し、いきなり12勝を挙げる。阪急を球団史上初の日本一に導いた広島との日本シリーズでも、6試合中5試合に登板。第3戦で先発し、抑えも兼務する活躍で、日本一決定の瞬間、マウンドにいた。

2年目は12勝、3年目も10勝、4年目は13勝し、リーグ4連覇に貢献した。

「今は先発、中継ぎ、抑えの分業制ですが、私が入った頃は先発と中継ぎの兼務はザラでした。先発した翌日だけは試合前に帰りますが、その次の日からはブルペン待機。エースの山田(久志)さんや足立(光宏)さんの先発ローテーションを守るため、若いモンのつとめだと思っていました」

山口の場合、より強いボールを投げようと、上半身を上下動させ、反動をつかって投げるフォームだったため、腰や肩に負担がかかる。チームの大先輩・福本豊から「そんなフォームやったら体が持たん。必ずケガするぞ」と忠告されても、自らのスタイルを貫いた。

山口を阪急入団に導いた藤井道夫スカウト(故人)が「(山口は)4年間は成績を残せる。でも肩を酷使しているから短い年数しか働けない」と周囲に予見していたのを、山口は人づてに聞いていた。恩人の予想をいい意味で覆すため、実は、山口は剛速球をより生かす変化球の習得にも挑んだ。

「入団から1年ごとに1種類、球種を増やそうとした。でもモノにならなかった。フォークなどはボールをうまく挟めず、人差し指の血管が切れて、内出血したこともありました」

山口には変化球投手に必要な腕のしなり、ひじ、手首の柔らかさがなかった。それを持ち合わせていた'50年生まれの同級生・東尾修はプロ20年間で通算251勝。だが山口は東尾を「すごい」と尊敬はしても、「羨ましい」と思ったことはなかった。