読書人の雑誌『本』
「公利」を追求した原敬
『原敬―外交と政治の理想』著・伊藤之雄

現在においても、原敬は理念がなく、妥協を常として権力を掌握してきた力の政治家である、という理解が根強く残っている。

事実はそうでなく、このたび出版した選書メチエ『原敬―外交と政治の理想』(上下全二巻)で述べているように、20歳代の新聞記者時代から「公利」(現代の公共性)を求める高い理想を持ち、日本の外交を国際規範に合わせるように働きかけ、イギリス風の立憲君主制を実現すべく尽力してきた。それのみならず、帝国主義の時代の制約を受けながらも、朝鮮国(韓国)や清国(中国)も日本のように近代化に成功し、独立を維持して東アジアの安定した秩序が形成されることを、究極の理想としていた。

原は思想家の福沢諭吉に優るとも劣らず、近代日本はどのように形成されるべきかの確固とした理想を持っていたのである。とりわけ、国際環境の変化への見通しや外交論においては、卓越したものがあった。加えて、それをどのように実現してゆくべきか、日本の現状を十分に理解した上で、実現のための手法も提示できる政治家であった。

安政三年(1856)に原は南部藩の有力武士の家に生まれ、12歳になる直前に維新を体験した。故郷は「朝敵藩」となり一家は没落。苦学を経て新聞記者となり、自由民権の時代の日本社会を冷静に考察した。その後、外交官としてキャリアを積み、日清戦争の前後には外務次官・駐朝鮮公使(現在の大使)にまで昇りつめた。さらに立憲政友会の創立に参加し、内務大臣などを歴任し、党組織の運営にも抜群の手腕を発揮して、総裁にまでなっていく。それのみならず、日本で一、二を争う部数を誇った大阪毎日新聞社や、古河鉱業の経営では、実業家として目を見張る能力を示す。

1918年(大正7)に首相に就任、日本で初めて本格的な政党内閣を作った。本書で明らかにしているように、あの大日本帝国憲法下で、一般の各官庁から陸・海軍や宮内省および宮中に至るまで、原首相・内閣がコントロールし得たのは、驚くべきことである。原は首相として第一次世界大戦後の国際環境の激変に日本を対応させようと、外交と内政の大転換を試みた。

また原内閣の党利党略による鉄道建設の典型とされた、いわゆる鍋弦線としての大船渡線についても、党利党略による路線選定ではなかったことを、私は最近刊行した研究書の中で明らかにした。むしろ原は、党内が利益誘導に走るのを抑制しようとしていた。しかし、不幸にして在任中の1921年11月に暗殺されてしまう。

現代の日本も、25年前に冷戦が終了して以来、大きな変化にさらされ続けている。近年においては、日中関係・日韓関係や北朝鮮問題において、安全保障上の問題も含め、大きな課題を抱えている。このような時代に、原の実像をとらえて外交や政治、政治家のあり方を考え直してみることは、意義のあることと思われる。また原のリーダーシップの取り方は、私たちが日常において関わる組織の中でも、参考になるだろう。

また本書は、ひとりの人間が環境の激変を体験する中で、家族や友人たちに支えられ、様々な葛藤を克服しながら、懸命に生きてきた話でもある。公的な生活との関連を重視しながら、家庭・友人・愛人・健康・本宅と別荘など私生活についても、十分に書き込んだ。私自身、書きながら原を通して、人間としてどのように生きるべきかを絶えず考えさせられた。

本書のような大部な本が書けたのは、原が客観的で膨大な日記を残しており、それが嗣子の貢(奎一郎)氏らによって公刊されていたからである。この『原敬日記』を、私は学生時代を含め40年以上の間、繰り返し読んで、著書・論文を書いたり、学部や大学院での演習の素材としたりした。何度読んでも新しい発見がある。

さらに、私の院生時代の終わりごろ、原敬の生まれた盛岡市で、大量の「原敬関係文書」が発見された。発見者の逸見利和氏(原敬の孫のミサ子氏の夫、のち原利和)から私の友人西山厚(その後、奈良国立博物館学芸部長を経て、帝塚山大学文学部教授)を通して、1980年に文書の整理と解読についての相談が私にあった。そこで、山本四郎先生(当時、京都女子大学教授)をご紹介した。山本先生を中心に松尾尊兊先生(当時、京都大学文学部助教授)等も加わり、「原敬文書研究会」を作って、新発見の文書の解読作業が始まった。成果は、同研究会編『原敬関係文書』全11巻として結実した。

その後、「原敬関係文書」の大半は、生誕地に建つ原敬記念館に寄贈された。これを契機に、原の手紙等の資料が寄贈・購入によって記念館に多く集められていき、地元での原敬研究も進んだ。この他、国立国会図書館・外務省外交史料館・岩手県立図書館等でも、原関連の史料の収集と公開が進んだ。加えて、これまで未公開であった新しい「原敬関係文書」(大慈会所蔵)があることもわかり、原の子孫のご厚意で全面的に利用させて頂けた。

以上の原に関わる多種多様な資料を読み込み、原を知れば知るほど、原の深さと大きさを感じる。相当の政治家であっても、多くの場合、一通り資料を収集して史実をよく知ると失望する点が少なからず出てくるのと、大きく異なる。

長い準備期間を経て、私は3年前の春から本格的にこの伝記の執筆作業に入り、ようやく刊行できて、本願を達成した。この間、原のご子孫の方々をはじめ、何度も足を運んだ盛岡の人々には、大変お世話になった。地酒「南部美人」と盛岡冷麵のうまさ、雪を頂くと他の季節よりもいっそう大きく見えた岩手山の美しさも、忘れられない。

ところで、本物の伝記を書くには、資料を読む以外に人生の体験がないと難しいという。原が20歳代前半に生活費も含め官費で学べる司法省法学校(のちの東京帝大法科)に嫌気がさし、結局退学になったくだりを書く際に、それを実感した。

私は中学卒業後、土木技術者になるべく5年制の国立岐阜工業高等専門学校に入学した。高校と大学の接続の際の無駄を省き、5年間で大卒と同等の学力と大卒以上の実技能力がつくという触れ込みで、当時は相当の難関校、人気の高い学校だった。入学してみると高専に合わないことに気づき、京都大学に入って歴史研究者になりたいとの思いが抑えがたくなった。2年生の1月末に高専を中退、高校の校長先生のご厚意もあり、2月から普通科高校1年生に編入学した。高専をやめた後に私が連絡を取ったのは、高専に満足している優等生たちではなく、頭は悪くないが学校に合わず成績は今一つという友人たちであった。原もそうではないかと思って調べてみると、予想通り同じことをしていた。

原は「賄征伐」に関わって薩摩出身の校長により意に反して司法省法学校を2年半で退学させられ、藩閥への恨みを募らせた、というのがこれまでの通説だった。しかし資料を丹念に見ると、原が若い時期から外交や国防に強い関心があり、法学校の入学の成績は二番だったのに、成績はしだいに下降し、3年次前期には65名中40番にまで落ちていることも確認された。原の能力と私の体験から見て、著しく意欲が低下したからとしか思えない。

法学校は卒業に8年間もかかり、卒業後さらに15年間も裁判官・検事などの司法官として奉職する義務があった。そうなると、「人生五十年」といわれた当時において、原は43歳まで本当にやりたいことができない。原はこの未来が嫌になり、退学になってもかまわないという気持ちで騒動に参加したのであろう。

前途が約束されたコースを中退した原は、不安を抱えながらも、それ以上の大きな希望と決意を持って、新聞記者や外交官、そして政治家へと続く道を踏み出したのだった。

(いとう・ゆきお 京都大学教授)
読書人の雑誌「本」2015年1月号より

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厖大な史料を歴史研究者としての確かな眼で読み込み、伊藤博文や山県有朋、昭和天皇など近代日本をつくってきた人々の評伝を著して高い評価を得てきた著者による、渾身の書き下ろし新作。「平民宰相」として知られる原敬の65年の生涯を描く、本格的評伝。 上下全2巻。

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