サッカー
二宮寿朗「柳沢敦物語“第3章”への期待」

 元日本代表フォワード、柳沢敦が現役引退を表明した。
 ベガルタ仙台の精神的支柱は、37歳になった今季も欠かせない存在だった。
 多くの試合でベンチ入りを果たし、11月2日の第31節ガンバ大阪戦では後半アディショナルタイムに貴重な同点ゴールを奪って、チームを「残留」に一歩近づけている。自身の持つJリーグ記録を更新するJ1での17年連続ゴール。健在ぶりを証明しながらも彼は契約延長のオファーを断って、スパイクを脱ぐ決断を下した。

 惜しまれての引退。最終節のアウェー、サンフレッチェ広島戦では試合後、広島の選手から胴上げされている。背番号と同じ13回。この粋な計らいも、柳沢の人徳のなせるわざだと言える。ファン、サポーター、そして選手たちやスタッフからも尊敬されてきた。それは、いくら苦しいことがあろうとも屈することなくサッカーに己のすべてをぶつけてきたからゆえだ。

背中で示した“プロの姿勢”

 ドイツW杯を境に、柳沢のサッカー人生は「明」から「暗」に転じた。
 グループリーグ初戦でオーストラリアに衝撃的な逆転負けを食らい、窮地に立たされて迎えた2戦目のあのクロアチア戦。加地亮からのクロスをファーサイドに入ってきた柳沢が決めきれず、千載一遇のチャンスを逃がしてしまったのだ。

 オーストラリアに敗れたジーコジャパンそのものに対する批判の目が、今度は強度を増して柳沢個人に向けられていく。「ゴールだけがフォワードの仕事じゃない」とする彼の信条までを全否定するようなものだった。W杯後、鹿島アントラーズで思ったような活躍ができず、引退まで考えるようになっていた。乱れた歯車を元に戻せないままでいた。

 それまでは、まばゆいほどの輝きを浴びてきた。
 1996年、富山第一高から鹿島入りし、3年目には22得点をマークしてエースに成長。鹿島で次々にタイトルを獲得してクラブの黄金期を築き、セリエAのサンプドリア、メッシーナでもプレーした。A代表では日韓W杯、ドイツW杯と2度、大舞台を踏み、58試合17得点の記録を残している。その実績も06年シーズンを最後に、いきなりピリオドを打ってしまう可能性があった。引退への気持ちが膨らんでいったからだ。

 だが、柳沢敦の物語には「第2章」があった。
「まだ老け込む年じゃないぞ」
 08年、J1に復帰した京都サンガの加藤久監督からオファーが届き、彼は「引退」の二文字を心に閉まって新天地に向かった。その1年目、日本人最多となる14ゴールを叩き出して7年ぶりにJリーグのベストイレブンに選出された。吹っ切れた柳沢がそこにはいた。見事な復活劇だった。10年には史上6人目となるJリーグ通算100ゴールを達成している。

 京都の3年目にJ2降格の憂き目にあい、自身も戦力外通告を受けて11年に仙台へ移籍する。手倉森誠監督からいきなりキャプテンに指名され、練習から一切手を抜かないその姿勢は若手にも大きな影響を与えた。12年のシーズンはリーグ戦全試合にベンチ入りを果たし、ロスタイムからの出場だろうが全力で持てるものを出し切ろうとした。最年長がいかなる状況でも手を抜かないのだから、若手が手を抜けるわけがない。「プロの姿勢」を柳沢の背中から学んだチームは、この年、リーグ戦2位という過去最高の成績を収めた。