仲間思いで反権力の硬骨漢、昭和を代表するスター・菅原文太さんを偲ぶ

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戦後を代表する大スター・高倉健さん死去の一報に接した際、同じく東映の金看板だった菅原文太さんに追悼の言葉をもらおうと考え、事務所の代表を務める夫人の文子さんに電話をかけた。11月18日のことだ。

文子さんはこう言った。

「分かりました。主人に話してみますね。こちらから連絡します」

普段と変わらぬ口調に聞こえた。ところが、いつまで待っても連絡が来ない。文子さんは律儀であり、約束を反故にするような人ではないため、軽い胸騒ぎをおぼえた。今になって思えば、文太さんの容体はすでに相当深刻だったようだ。10日後の11月28日、文太さんは逝く。81歳だった。

仲間思いで、信義に厚い人

健さんと同じく、文太さんも俳優として輝かしい実績があるのは知られている通り。だが、文太さん自身は過去を振り返ることを好まなかった。回顧談を聞かせてもらおうと思い、お願いしたことがあるが、いくら頼んでも固辞された。

あらゆるメディアを眺めてみても、文太さんが自分の過去を振り返った例は皆無に等しい。自伝を出版したことはなく、評伝の執筆に協力したこともない。照れ性で自慢めいた話が嫌いだったからである気がするが、本人が鬼籍に入ってしまった以上、詳しい理由は知る術がない。

半面、映画界の友人や仲間が亡くなると、故人の功績を進んで話してくれた。追悼コメントの取材は断られたためしがない。信義に厚い人だった。

今年3月、宇津井健さんが他界した際もそうだった。ホームドラマ界の大スターだった宇津井さんと、男くさい作品にばかり出演していた文太さんの間には、接点がないように見えるが、二人の映画人生の振り出しは、ともに新東宝。戦後の一時期、同じ釜の飯を食べた間柄だ。

文太さんは「宇津井さん、お元気だと思っていたんだけどなぁ・・・」と残念そうに漏らし、一呼吸置いたあと、「最後まで第一線の俳優であり続けたのだから、立派だし、ご本人も幸せだったんじゃないか・・・」と語った。

ちなみに二人は早稲田大学中退という点でも一緒。新東宝に入る前、文太さんは劇団四季、宇津井さんは俳優座に所属しており、演劇界出身であるところも同じ。まったく違ったキャラクターのようで、実は接点や共通点が少なくなかった。知性派の人格者であったところも一致する。

文太さんが大スターの座に登り詰めたのは、松竹を経て東映に移籍してからのこと。代表作の一つが『仁義なき戦いシリーズ』(1973年~)。この作品で共演した川谷拓三さんの追悼座談会への出演も快く引き受けてくれた。今年6月のことだ。

「拓ボンの功績をあらためて讃えるという内容なら、やらせてもらう」

すでに体調が万全ではなかったはずだが、わざわざ山梨県の自宅から上京してくれた。「拓ボンは良い奴だったよ」と繰り返し口にしていたのが印象的だった。そして、『仁義なき戦い』の成功は川谷さんら助演者の好演を抜きには語れないと何度も強調した。文太さんの人間性を垣間見た気がした。

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