高倉健、菅原文太の相次ぐ死で甦る 東映『やくざ映画』名プロデューサー俊藤浩滋の功績

2014年12月04日(木) 伊藤 博敏
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暴力団との「友好関係」

俊藤プロデュース作品は受けたが、義理と人情の世界が、しだいに予定調和の世界となって新鮮味が薄れ、飽きられ始める。その時、打ち出したのが実録路線。第一弾が、1973年1月に封切られた「仁義なき戦い」だった。

暴力団世界の裏切りと嫉妬、打算と駆け引きといった剥き出しの感情を、手持ちカメラのぶれた映像にうまく乗せ、広島弁の迫力もあって大ヒット。主演は、任侠路線では芽が出なかった菅原文太である。

実録には、モデルがいて敵と味方に分かれている。双方を納得させるのは容易ではないが、その暴力団双方の調整が可能だったのも俊藤だったからだ。

俊藤は、既に、山口組でのポジションを確かなものにしていた菅谷の他、三宮に本部を置く独立系組織ながら、東京の広域暴力団・住吉会と親戚関係にあり、山口組三代目の田岡一雄組長とも親しい松浦組の松浦繁明組長の弟分になったことで、対暴力団の防御態勢を、より確かなものにした。

しかし一方で、暴力団との“友好関係”は、暴力団幹部と俳優との人間関係を生む。

高倉は、73年8月に封切られた「山口組三代目」で田岡組長に扮した。ただでさえ義理堅い高倉のこと、田岡組長への挨拶は欠かさない。菅原もまた、「仁義なき戦い」の広島やくざ戦争に登場する暴力団関係者とのつきあいを厭わなかった。

スター俳優だけではない。中堅俳優も女優も、映画を通じた人間関係のなかで暴力団と親交を結ぶようになった。暴力団幹部は、俳優たちの若さゆえの喧嘩、女性(男性)問題、借金トラブルなどの相談相手にもなり、関係は深まっていった。

しかし、実録路線もやがて飽きられ、俊藤プロデュース作品は、92年の「修羅の伝説」、93年の「民暴の帝王」で途絶え、99年の「残侠」が最後の作品となった。

俊藤は、戦中、暴力団との垣根が全くなかった頃に関係を結び、日本の経済成長に歩調を合わせて幾多の東映やくざ映画をヒットさせ、暴力団排除の流れのなかで役割を終えた。92年の暴対法施行で俊藤作品が途絶えるのは、その象徴だろう。

時代は、さらに暴力団にとって厳しいものになり、2011年の暴排条例全国施行以降、暴力団の存在を認めるような映画が作られなくなったのはもちろん、映画だけでなく、本来、興行通じて近い関係にある芸能界全体が、暴力団関係者との接触を禁じられた。

そのため高倉も菅原も、やくざ映画のスターであったことは控え目に語られ、追悼番組で俊藤作品が放映されるのは少ない。

しかし、俊藤が時代を体現した名プロデューサーで、多くのスターを生み出したことは、残された作品とともに、忘れてはならない事実なのである。

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