高倉健、菅原文太の相次ぐ死で甦る
東映『やくざ映画』名プロデューサー俊藤浩滋の功績

伊藤 博敏 プロフィール

夫人は「おそめ」、幼馴染にのちの山口組若頭補佐

俊藤は、この道に入るまで、波瀾万丈の人生を送っている。

1916年(大正5年)、神戸市に生まれた俊藤は、軍隊生活の経験はあるものの、終戦は、製鉄会社への物資納入会社社員として迎えた。軍需会社であったことから物品は豊富。それを仲間とともに売り飛ばし、相当な富を手にした。

既に結婚、子供をもうけていたものの、若さと戦後の開放感に包まれて、戦火を免れた京都で豪遊。それが縁で出会った祇園の芸者と暮らすようになる。

その芸者が、引退後の48年、京都・木屋町に開いたのがクラブ「おそめ」。7年後には東京・銀座に進出、「おそめ」には、各界の名士が集まり、賑わった。

大佛次郎、里見弴、川端康成、丹羽文雄といった作家、東郷青児、岩田専太郎といった画家、朝日新聞、文藝春秋といったマスコミ界の名物記者・編集者に、政界や実業界の大物が訪れ、プロ野球選手なども出入り、評判の店となった。

「おそめ」のママが、後の俊藤夫人の秀だが、俊藤は、裏方としてマネージャー役に徹したものの、「おそめ」の人脈が俊藤の人脈ともなり、各界に顔を売っていく。その過程で、東映に縁を持ち、岡田茂元会長と出会い、60年代に入って、プロデューサー業に手を染める。40代後半の遅いスタートだった。

だが、10数年、マネージャーと言えば聞こえはいいが、実質的には“ひも”だった俊藤は、天職に出会ったような活躍を見せ、任侠路線が軌道に乗った65年には20本、66年にも同じく20本もの映画をプロデュースする。

どうして可能だったのか。

「やくざ社会に、俊藤さんは基盤をもっていました。暴力団員になったことはなかったけど、戦前、神戸の五島組の賭場に出入りするうちに大野福次郎親分に可愛がられ、その頃の遊び仲間で義兄弟の関係を結んだのが、後に山口組の若頭補佐になる菅谷政雄。やくざ社会の裏表を知り尽くしていました」(俊藤と親しかった東映関係者)

東映やくざ映画にあったのは、暴力団のリアルな描写であり、襲名披露、事始めといった儀式の活写であり、賭場や出入りに漂う緊張感である。それを俊藤は、実体験に基づいて再現するだけでなく、現役を招いて指導までさせた。