高倉健、菅原文太の相次ぐ死で甦る
東映『やくざ映画』名プロデューサー俊藤浩滋の功績

テレビの普及で映画が衰退期を迎えた1960年代以降、東映に次々にヒット作を生むプロデューサーが現れた。

俊藤浩滋――。

「高倉健、菅原文太は俊藤組の若頭と若頭補佐」

『網走番外地』は俊藤ー高倉コンビの大ヒットシリーズ   photo Getty Images

博徒、日本侠客伝、昭和残侠伝、緋牡丹博徒、網走番外地、賞金稼ぎ、仁義なき戦い、山口組三代目、日本の首領……。

シリーズ化されたこうした映画は、すべて俊藤プロデュース作品。俊藤は、2001年10月、84歳で亡くなるが、生涯で300本近い映画を残し、そこから生まれたスターが、高倉健であり、菅原文太だった。

高倉と菅原が相次いで亡くなった。

俊藤を通じて、東映の映画俳優と親しかったという暴力団幹部が、こう表現したことがある。

「ワシらの世界で言えば、俊藤組の舎弟頭が鶴田浩二、若頭が高倉健、若頭補佐が菅原文太という位置づけやった」

東映が、「清水の次郎長」など股旅ものの時代劇ではなく、暴力団を主人公にし、「東映やくざ映画」という路線を敷いたのは、1963年に封切られた「人生劇場 飛車角」だった。尾崎士郎の小説「人生劇場」のなかの「残侠編」に絞って映画化、主役の飛車角は鶴田浩二が務めた。

翌年、明治中頃の大阪を舞台に、任侠道一筋の侠客を主人公にした「博徒」が封切られ、暴力団社会のしきたりや行事、凄惨な殺し合いがリアルに描かれて評判を呼んだ。この「博徒」が俊藤のやくざ映画の初プロデュース作品。

主演はやはり鶴田浩二で、「任侠映画」という路線が確立する。以降、70年安保を前にした若者たちの閉塞感の高まりといった世相にも合致、任侠映画は次々に制作され、いずれもヒット、シリーズ化され、新たなスターを生んだ。

それが、日本侠客伝や網走番外地の高倉健であり、緋牡丹博徒の藤純子だった。藤は、俊藤の次女である。