二軍暮らし ドラ1たちの「長すぎた午後」
己に負け、運命に翻弄され一軍に上がれぬ悔しさは、惰性の中に埋もれていった

最初は皆、二軍スタートだった。ある者があっという間に駆け抜ける一方、望まざる「二軍暮らし」を続ける選手たちがいる。俺はなぜ、ここにいるのか—苦悩の中であがき続けた男たちの物語。

プロでは何もしていない

こんなはずではなかった。でも、数字が示す現実にはさからえない。プロ12年目を終えた尾崎匡哉(30歳)は10月末、日本ハムから戦力外通告を受けた。

「戦力外になったこと自体はそれほど落ち込んでいない。9年目('11年)ぐらいから毎年覚悟はしていましたし、ずっと苦しかった。でも、僕はプロに入ってから何もしていないんです」

名門・報徳学園の遊撃手として、'02年の春の選抜高校野球で優勝。高校通算21本塁打の大型内野手として入団し、周囲の期待も大きかった。しかし、一軍でのプロ通算成績は12年間で出場わずか25試合。34打数6安打、打率・176。一軍で10試合以上出た年は一度もない。甲子園を沸かせたスターにしては、あまりにも寂しい数字だった。

「入団前は『すぐにでも一軍に入る』という気持ちでしたが、実際にプロに入るとすべてに驚きました。特に同じ遊撃手の(田中)幸雄さん(現・日本ハム二軍監督)は打っても、守ってもすごい。このままではダメだ、と感じたので、高校時代の打ち方、投げ方からすべて捨てました」

一軍でメシを食うためには、まずは自分をプロに導いた実績を否定するしかなかった。高校時代は最短距離で耳の横からバットを出す打法だったが、それではプロでは内角球しかとらえられず、外角の変化球に対応できない。簡単にいえば、インコースではなく、外を振るイメージのスイング改造からはじめた。

「最初の2年間はやっても、やっても結果が出ない。同世代の選手は試合にどんどん出ていましたが、僕はボールボーイでした」

初の一軍昇格までに、6年間も費やした。しかし念願の一軍では結果が現れず、すぐに二軍に降格。入団4年目の'06年には陽岱鋼、6年目の'08年には中田翔が加入。後輩に追い抜かれる自分が歯がゆかった。二遊間は当時、田中賢介や金子誠が健在。狭き門は、さらに狭くなった。

中田と同時に入団した梨田昌孝監督からは、尾崎の野球人生を左右する、捕手転向も打診された。

「チャンスを広げるためにやってみたらどうだ」

専門職である捕手が野手に転向して開花した例はあるが、逆はほとんどない。ただ尾崎は本職の遊撃でも失策が多く、首脳陣の信頼を十分得られていなかった。内野は投手以外どこでも守れる「便利屋」になることが、プロで生き抜くために残された道だった。