ドイツ
「一昨日、死のうと思った」---ベルリンで独り死を待つ老人と尊厳死
〔PHOTO〕gettyimages

「肺にガンができた。今、死ぬのを待っているんだ」

「ダメだ、全然元気じゃない・・・」

受話器から聞こえてきたWの喘ぐような声だった。Wはベルリンに住んでいる。久しぶりに電話をかけて、「元気?」と訊いたらこの返事だ。もう85歳で、持病があるので、それほど快調だとは思っていなかったが、しかし、ほとほと困った。

「どうしたの? 歩けないの?」

「ああ、もう歩けない。酸素の管につながっているよ。これがないと、息ができない」

Wは力なく答えた。少し歩くと胸が苦しくなるのは、もう、数年も前からのことだった。

「前よりもひどくなったのね」

「ああ、肺にガンができた。今、死ぬのを待っているんだ」

え? ガン? 苦しそうな声だが、しかし、頭はいつもどおり明晰のようだ。

「来週ベルリンに行くので、会いに行こうかと思ったんだけど・・・」

「それは嬉しい」

「でも、私が行ってもいい状態?」

「もちろんだ。外に食事には行けないが、コーヒーを飲みながら話ぐらいはできる」

可愛そうなW・・・。仲のよかった夫人が4年前に亡くなって、Wは今一人で暮らしている。

意地っ張りのWは、一人になっても、小さな一軒家を完璧に保っていた。遊びに行くと、いつもテーブルは美しくデコレーションされ、お茶のときはケーキがたくさん。夕食のときは、買ってきたごちそうがセンス良く並んでいた。私が感激して、「すごいじゃない、W!」と褒めると、「僕にだってこれぐらいできるってことを、実証しなければね」と自慢そうに言っていたものだ。

Wの病気のことを知ったその夜、彼の息子に電話を掛けた。息子の方は面識はあるが、あまりよくは知らない。訪ねていって良いものかどうかと訊いたら、「親父も喜ぶでしょう。どうぞ訪ねてやってください」と、かなりそっけない返事。そういえば、Wが電話で言っていた。「僕が家に一人でいるので、息子たちが怒っているよ」と。

Wと私は親子ほど年が違うが、昔から何となく気が合う。私はWの知的さと頑固さが好きだった。Wは政治の話になるととくに雄弁で、時事に対する批評は見事なまでに的を射ていた。

Wは東独の出身だ。官僚だったが党員ではなく、反体制の思想を胸に秘めていた。しかし、闇雲に西側を賛美するわけでもない。Wの心の中はとても複雑だ。彼の話にユーモアと皮肉と、そして、いぶし銀のように鈍い光を放つ諦念がちりばめられているのは、おそらくそのせいだ。Wと話していると、旧東独の知識人とはこういう人たちだったのだということが、ひしひしと伝わってくる。

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