ブルーバックス
『社会脳からみた認知症』
徴候を見抜き、重症化をくい止める
伊古田俊夫=著

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全介護者必読!
「認知症+予備軍1000万人」時代に備える。
記憶障害や知的能力の低下だけではとらえきれない、
患者の「心の変化」とは?
現役世代からの早期発見を可能にする知識とは?
症状を理解し、介護の負担を軽くする新しい視点を、
専門医がやさしく語る。

 認知症は、社会生活を営むうえで不可欠の「社会脳」を破壊するという。突然、怒り出す。平然と他人を無視する。妄想に駆り立てられ、暴力をふるう――。現役世代を襲う「若年性認知症」で特に問題となるこれらの症状は、なぜ現れるのか?

 病状の進行とともに大きく変化していく患者の心の状態を、「脳の機能」の観点から解き明かす社会脳科学によって、“患者本人の性格のせい”にされがちだった介護者泣かせの行動の背後に、脳の病変がひそんでいることが明らかになってきた。家族関係や夫婦関係、職場の人間関係を激変させる“国民病”と向き合うための、新しい認知症のとらえ方――。


はじめに

 秋も深まったある日曜日、私は近くのスーパーに買い物に出かけました。街路樹の葉は落ちて、冬がすぐそこに迫っていました。

 店では、妻の書いたメモに沿って豆腐や野菜をカゴに入れていきます。ふと前を見ると、顔見知りのご婦人がいるではありませんか。弁当とお茶を手に、レジへ向かおうとしています。つかの間、お互いの目が合いました。はっきりと会釈したつもりでしたが、彼女は私に気づくことなく立ち去ってしまいました──。

 その婦人は、私が診ている認知症の患者さんです。勤務先の病院の近くに住んでいる私は、街の中でしばしば認知症の患者さんたちに出会います。そんなとき、今という時代が「認知症の人とともに暮らす時代」であることを実感します。

 認知症の患者さんとは、たとえ目が合って会釈や挨拶をしても、気づいてもらえないことがよくあります。会釈や目配せ(アイコンタクト)に気づく「注意力」が落ちているのでしょう。人の顔を見たとき、その人がこちらに気づいている、会釈をしている、笑っている、怒っている……、といった表情の変化にきちんと気づくことは、人間関係を築くうえできわめて大切なことです。

 認知症の人は、周囲の人の表情や感情の変化に気づく力が落ちている―それは、なぜでしょうか……?

 その理由を考えているときに、「社会脳」ということばを駆使する社会脳科学(社会神経科学)という学問に出会いました。私たちが社会生活を営むうえで不可欠な機能を担う社会脳に関する勉強を重ねるうちに、〈社会脳科学なら、認知症の人の心や感情の変化などを、より的確に解析できるのではないか〉そんな考えが芽生えてきました。

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 ―人の気持ちを理解する

 ―人の心の痛みをわが痛みとする

 ―自分のいたらなさを反省する

 認知症を患うと、このような心の大切な働きが少しずつ失われていきます。まわりの人たちの気持ちを理解する力が衰え、ちょっとしたことで怒り出して暴言を吐くことがあります。極端な場合には、目の前にいる人を堂々と無視して立ち去ってしまう、直前まで語り合っていた相手を突然、無視してソッポを向いてしまうといった症状もあり、家族や親しい人に衝撃や苦しみを与えます。

 認知症の人に生じる「心の変化」は、記憶の障害や知的能力の低下だけでは説明しきれません。他人の気持ちを理解し、周囲の人とうまく生活していく「社会的な能力の低下」としてとらえなければ、十分にその原因を究明することはできないのです。

 人の心の社会との関わり、社会的な行動を脳機能として解明する学問、それが「社会脳科学(社会神経科学)」です。社会脳科学によって、私たちは認知症をより深く理解することができます。実際に介護にあたられているご家族のみなさん、あるいは介護福祉士や介護職に就かれている方々にとっては、患者さんの「心の変化」に起因する苦悩を大幅に軽減させることができるでしょう。

 社会脳科学は、「社会脳」という脳の新たな姿を提唱しています。社会脳とは、社会生活を適切に行うために必要な脳の働き、それを中心的に担う脳の領域の名称です。近年の画像検査を用いた研究によって社会脳の解剖学的構造が解明されつつあり、社会脳科学は一気に注目を集めるようになりました。

 明らかになってきた社会脳の解剖マップを初めて見たとき、私はとても驚きました。社会脳と称される脳の領域が、認知症において侵される脳の領域とほぼ重なっていたからです。

「認知症とは、社会脳が壊れる病気である」―そう考えるようになりました。同じころ、山口晴保教授(群馬大学)が編著書『認知症の正しい理解と包括的医療・ケアのポイント(第2版)』(協同医書出版社、二〇一〇年)の中で「社会脳の障害が記憶障害などとともに現れた状態が認知症である」と書かれていることを知り、意を強くしました。

 私は、二〇一二年に『脳からみた認知症』(講談社ブルーバックス)を刊行し、脳機能からみた認知症の体系的な解説を行いました。その中で、認知症の理解に重要な、今後注目すべき理論として社会脳理論を紹介しています。

 二〇一三年五月、米国精神医学会は認知症の診断基準を改訂し、「社会的認知の障害」(他人の心や気持ちを理解することを「社会的認知」と呼び、社会脳の基本的な働きの一つ)を認知症の診断根拠の一つとすることを決めました。これは、社会脳理論が認知症診断学の中に正式に取り入れられたことを示すものです。

 この新しい動向をふまえ、本書では、社会脳の視点から認知症の症状全体を改めてとらえ直し、認知症の人の行動と心理を社会脳科学の立場から解説していきます。米国精神医学会の新しい診断基準の普及とともに、社会脳科学関連の書籍への需要が増加していくものと思いますが、本書がその先駆けとして読者のみなさんのお役に立てば幸いです。

 社会脳と聞くと難しいものと思われそうですが、介護にあたるご家族や介護職にある方々に、ぜひともこの考え方を知っていただきたいと思っています。前記のように、認知症の人の心に生じる変化をより深く理解することで、介護に際しての心理的負担や苦悩からずいぶん解放されると考えられるからです。

 また、若い年代=現役世代で発症し、社会との関わりが深い時期に症状が深まっていく「若年性認知症」(六四歳以下で発症した認知症)を理解するにあたっても、社会脳科学の視点が重要になってきます。社会脳の働きの低下は、社会生活の破綻を来しやすく、若年性認知症の患者さんやその家族の方々が直面するさまざまな問題と密接に関わっているからです。

 また、社会脳の働きが低下したときにどのような症状が現れるかを知っておくことで、認知症の早期発見につながる可能性があります。若年性認知症に関心がある方には、特にお読みいただきたいと思っています。

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 わが国の認知症患者が四六〇万人を超え、予備軍が四〇〇万人いる事実が最近、公表されました。この憂慮すべき事態に目を向け、認知症を早期に診断し、治療・予防の軌道に乗せる知識を詳細に解説することを、本書の第二の目的としています。

 九〇歳を超えると五割の人が、九五歳を超えると八割の人が認知症になるという調査結果も出ています。長生きをすれば、誰でも認知症になりうる時代です。ぜひ多くのみなさんが認知症を正しく理解し、認知症の人の心の状態を知り、また、認知症を予防する対策を試みてほしいと願っています。

 本書は、第1章から第5章までを、社会脳科学、社会脳という視点からみた認知症の解説に割いています。第6章以降では、認知症の早期発見や早期診断、予防に関する知識を解説しています。前著の内容と重ならないよう、新しい知見を整理して盛り込みました。

 米国のベースボールリーグはメジャーとマイナーに二分されていますが、認知症にもメジャーとマイナーが存在します。マイナーのうちに診断して、治療を開始するという方向が、認知症医療の最新トレンドになっています。米国精神医学会で提唱されたこの考え方についても、第6章以降でご紹介します。

 うつ病や認知症の増加を背景に、現代社会を「思考や知性の危機の時代」としてとらえることが可能です。そのような時代の到来に対する一つの先駆的な予言として、都筑卓司『マックスウェルの悪魔』(講談社ブルーバックス、初版一九七〇年、新装版二〇〇二年)における考察をご紹介し、思考や知性の危機についても思いをめぐらせてみました。

 認知症の増加を、社会における思考や知性の危機の一つの表れとしてとらえると、何が見えてくるのでしょうか? 読者のみなさんと一緒に考えてみたいと思います。

 本書では、実際の患者さんの事例を数多く取り上げ、具体的でわかりやすい記述を心がけました。いずれの事例も、私自身が診療してきた患者さんをモデルにしていますが、職業やエピソードなど個人情報に関わる部分は適切に変更し、個人が特定されないよう配慮しています。

 本書には、脳の画像としてMRI(核磁気共鳴画像法)、CT(コンピュータ断層撮影)、SPECT(単一光子放射断層撮影)の三つが登場します。MRIとCTは脳の「形」を映し出す検査であり、SPECTは脳の「血流量」を画像化する検査です。

 たとえ形が正常であっても、血流が低下したときには脳の働きは低下します。脳SPECTを使うことで、CTやMRIではわからない変化(機能低下)を描き出すことができます。この点については前著で詳しく解説しましたので、ご参照ください。

 第6章でも紹介するように、最近は脳SPECTでドパミン代謝を画像化する検査が可能となっていますが、断りのないかぎり、本書で扱う脳SPECTは血流画像です。また、同じ画像診断法に属する検査法としてPET(ポジトロン断層画像診断法)や機能的MRI(fMRI)などがあり、社会脳研究で使用される中心的な研究機器となっています。本書では、研究論文からの引用のかたちで両者の写真を利用させていただきました。

著者 伊古田俊夫(いこた・としお) 
一九四九年、埼玉県生まれ。七五年に北海道大学医学部卒業後、同大脳神経外科、国立循環器病センター脳神経外科を経て、八四年に勤医協中央病院脳神経外科科長、二〇〇一年に同院院長に就任。二〇〇八年から同院名誉院長。二〇一〇年、札幌市認知症支援事業推進委員長。日本脳神経外科学会専門医、認知症サポート医。認知症の地域支援体制づくりに取り組むかたわら、社会脳科学の立場から認知症の臨床研究を進めている。著書に『脳からみた認知症』(講談社ブルーバックス、二〇一二年刊)がある。
『 社会脳からみた認知症 』
徴候を見抜き、重症化をくい止める

伊古田俊夫=著

発行年月日: 2014/11/20
ページ数: 240
シリーズ通巻番号: B1889

定価:本体  900円(税別)
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(前書きおよび著者情報は初版刊行時点のものです)