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[サッカー]
田崎健太「Jリーグ草創期を彩ったトニーニョが抱く希望」

2014年11月17日(月) スポーツコミュニケーションズ
指導者としての経験を積んだつもりのトニーニョだったが……。撮影:西山幸之

 監督はチームの中で最も結果を求められる立場だ。
 チームの成績がはかばかしくないときに選手を交換することは、財政的に大きなリスクがある。不甲斐ない大敗、負けが込めば、最初にすげ替えられるのは監督の首だ。だからこそ、監督には大きな権限が与えられてきた。

 選手を気持ち良くプレーさせることに心を砕く監督、あるいは自ら決めた規律を徹底的に守らせる監督――彼らはそれぞれの流儀を守り、勝利を求める。特に結果を残してきた監督は頑なだ。

厳しかった指導者としての現実

 元清水エスパルスのトニーニョは、弟のソニー・アンデルソンが所属したFCバルセロナ、オリンピック・リヨンでは監督の理解もあり、練習の見学はもちろん、時に参加することもあった。

 ところがアンデルソンがリヨンからスペインのビジャレアルに移ると事情が変わった。
 ビジャレアルは、バレンシア州のビジャレアルに本拠地を置く、1923年創設の小さなクラブである。1部リーグに初めて昇格したのは、98―99シーズンのことだった。同シーズンで2部に降格したものの、1年で1部へ復帰した。

 この田舎町のクラブを大きく変えたのは、04―05シーズンから監督となったマヌエル・ペリジェグリーニである。
 彼は部外者が練習に関与することを快く思わなかった。また、アンデルソンが結婚したこともあり、自分が一緒にいると新妻が気を遣うだろうと、トニーニョはブラジルへ帰国することにした。

 トニーニョがビジャレアルで印象に残っているのは、アルゼンチン人のミッドフィルダー、フアン・ロマン・リケルメだった。
「彼がバルセロナから移籍してきたんだ。リケルメはバルセロナで上手くいかなかった。リヨンに来たばかりのジュニーニョと同じで、ボールを持ちすぎていたんだ。アンデルソンやぼくと良く食事に出かけたものだよ。リケルメがアンデルソンにアドバイスを求めていたんだ」
 その後のリケルメのビジャレアルでの活躍はご存じの通りだ。

 トニーニョは欧州で指導者としての経験を積んだつもりだった。
 しかし、現実は厳しかった。帰国以降、彼の人生から急速に光が失われていくことになる。

 ブラジルに帰国して、最初に指揮したのは、サンパウロ州ヒベロンプレットのコメルシアルというクラブだった。
「2年ほどプロチームで監督をしていたんだ」
 選手と監督とでは求められる資質が異なる。監督は時に冷酷にならなくてはならない。人のいいトニーニョには難しかったのかもしれない。その後、プロチームからは声が掛からなかった。

地元の学校で子どもたちを教えることもあったという。
「13才から17才、200人ぐらいの生徒がいたんだ。チームはアマチュアだったけれど、支払いは良かった。子どもたちもぼくの指導を喜んでくれたよ」
 しかし、そのプロジェクトも2年間ほどで終わってしまった。

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