第101回 力道山(その二)高級外車とともに凱旋帰国後、街頭テレビの中継で国民的スターへ---

相撲を廃業した力道山は、タニマチだった新田新作の建設会社で資材部の部長として働き始めたが、待遇の悪さに腹を立て、酒を飲み喧嘩に明け暮れる毎日を送っていた。
ちょうどその頃、アメリカのプロレスラーが駐留米軍を慰問するために来日した。1951年9月のことである。

銀座のナイトクラブ「銀馬車」で、力道山は来日したプロレスラーの一人である、ハロルド坂田と遭遇した。
些細なことから二人は喧嘩になり、力道山が得意の張り手を見舞ったが、相手に逆関節をとられ、ねじ伏せられてしまった。

力道山はプロレスの技の凄さに驚かされ、これをきっかけに翌月の10月に行われたプロレスラーとのエキシビション・マッチに出場したということになっている。
が、これはプロレス記者の作り話だという説もある。力道山神話の一つということだ。

試合の結果は全て時間切れの引き分けだったが、この後力道山はプロレスラーとしての才能とスターとしての素質を見込まれ、興行師・永田貞雄によって、プロレスの世界へ送り込まれていく。

翌年の2月、力道山はプロレス修業のため、渡米した。ハワイでトレーニングを始め、その後、サンフランシスコを中心に300試合をこなし、わずか五敗という成績を残した。

1953年に帰国したとき、力道山は、全米最大規模のNWA(全米レスリング同盟)のプロモート権を獲得してきた。
レスラーの才能とともに、経営者的素養も持ち合わせていたのである。
またこのとき、キャデラック、ジャガー、クライスラーと、外国車を三台持ち帰った。

当時の日本人にとっては、到底手の届かない夢の高級車である。
その車に乗って、力道山は国民的スターへの道を突き進んだ。

1954年2月19日。
力道山のプロレスが街頭テレビで放送された。テレビの放送開始から、およそ1年後の事である。

正力松太郎は、街頭テレビを設置した。
かつて、大リーグ選抜チームを招聘し、日本のプロ野球の生みの親ともなった正力が、それに続いてプロレスブームを作ったと言われているが、実は正力はプロレスには違和感を持っており、テレビ中継もしぶしぶ認めたというのが実情だった。

日本テレビの中継は19時半から21時まで。NHKは20時から21時。かつてはNHKもプロレスを放映していたのだ。
ただし、NHKの社史には、プロレスの放映については記述されていないという(『昭和テレビ放送史』志賀信夫)。

「プロレスほどテレビにピッタリの番組はない」

実際に試合が行われた国技館の入りは六割程度だったが、街頭テレビの前は群衆が詰めかけ、身動きのできない状態だった。
力道山・木村政彦とシャープ兄弟のタッグマッチで、力道山の空手チョップが炸裂する場面では地鳴りのような歓声が上がったという。
それまで映画のニュースや、新聞記事などで一部の人に知られていただけだった力道山は、この日から大衆のスターとなった。