川口マーン惠美「シュトゥットガルト通信」

ベルリンの壁崩壊から25年、東西ドイツ統一の困難を振り返って思うこと

2014年11月07日(金) 川口マーン惠美
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壁の崩壊を祝うため、ブランデンブルグ門に集まったベルリン市民 〔PHOTO〕gettyimages

東西冷戦に終止符を打ったベルリンの壁崩壊

今からちょうど25年前の1989年11月9日、ベルリンの壁が落ちた。これにより、戦後40年以上続いた東西冷戦に、事実上の終止符が打たれたのだった。

壁の崩壊のきっかけが、ゴルバチョフ氏であったことは間違いない。1985年、ソ連共産党書記長に就任した彼が着手したペレストロイカ(改革)は、破綻していたソ連の財政の立て直しを目標としていたが、それはまもなく政治や軍事、外交、はては思想全体の見直しにまで発展した。

当時のソ連の経済は、すでに壊滅状態だった。アフガニスタンでの泥沼のような出費が、その没落に拍車をかけていたとも言われる。防衛費をどうにかして減らそうとしたゴルバチョフは、レーガン大統領とともに核軍縮への布石を敷き、民主化の意思を示すため、国内の政治犯を釈放した。そして、その変化の気配を敏感に感じ取ったハンガリーやポーランドは、静かに、しかし確実に、ソ連の支配下を離れ始めた。

ところが東ドイツは、断末魔にあるソ連を前にしながら、現実を見ることはなかった。それどころか、1989年1月、ホーネッカー書記長は「ベルリンの壁は、50年後も100年後も存在し続けるだろう」と、間抜けな演説をしていたのだった。

しかし、歴史の展開は早かった。その年の5月には、ハンガリーがオーストリアとの国境を開き、自国民の出入国を認め始めた。すると、ハンガリーまで合法的に来られる東ドイツ人が、このルートを使ってオーストリアに出ようと試みた。

最初、東ドイツ人の出国を許可することを躊躇していたハンガリー政府だったが、そのうち、東ドイツのために第2の壁の役割を果たすのにうんざりしてしまったらしく、東ドイツ人にも国境を開放するようになった。それを見た東ドイツのホーネッカーはソ連に救いを求めたが、すでにこの時、ゴルバチョフの興味は、東ドイツではなく、西ドイツの意向にあった。

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