第100回 力道山(その一)十数億円もの財産を残して死んだ―力士上がりの「日本プロレス界の父」

今日、力道山と云ってすぐに反応できる人は、どれほどいるだろうか。
そういえば、力士上がりのプロレスラーがいたなあ、という程度のおぼろげな認識しか残っていないのかもしれない。
けれど、彼の生きざまは、鮮烈なものだった。
力道山の生涯は、39歳と1ヵ月。
プロレスラーとしての活躍期間は約10年ばかりに過ぎなかった。
にもかかわらず、ごく短い年月に、10数億円ともいわれる財産を残し、ごく詰まらない喧嘩で殺されてしまった。

相撲博物館に残されている力道山の星取表には、以下のように記してある。

本名=金信洛 金信一郎 金村 百田光浩
力士名=力道山 昇之介 信洛 光浩
出身地=朝鮮・長崎県大村。

また、戸籍抄本には、次のように記載されている。
戸主 金村恒洛 出生 明治三十九年九月 父亡金錫泰 母 巳 金村光浩(三男)、父亡金錫泰 母 巳 出生 大正十三年十一月。

力道山の生家は、朝鮮の片田舎で精米所を営んでいた。
長男である兄の金恒洛は、朝鮮角力の横綱格、弟の金信洛こと力道山は関脇の実力を持っていたという。

当時、朝鮮では端午の節句に相撲大会が盛んに行われ、優勝者には牛二頭、準優勝には牛一頭が、賞品として贈られたという。
後に、力道山を日本に連れてくることになった小方寅一朝鮮警察官も、この相撲大会を貴賓席で観戦し、ぞっこんに参ってしまった。
小方刑事補は、さっそく料亭に兄弟を呼び出して、心もちを尋ねると、弟の信洛は、日本で相撲を取りたい、と云った。
だが、母は嫌がった。

「人前で裸になって見世物になる商売を、息子にはやらせたくない」

実際の母親の存念は、植民地の人間は必ず、軽蔑されたり、虐待されるものと思っていたのだった。
特に、信洛少年は、日本語があまり上手ではなく、濁音はまったく駄目だった。
刑事補は、信洛少年の熱意に絆されて、部下の金景烈巡査部長や金の親分格だという人物まで引っ張りだしてきて母親を説得したが、逆効果になってしまった。

母親はいよいよ頑なになり、信洛をどうしても、日本にはやらないと決心し、急いで花嫁をみつけて、結婚式の御膳だてに奔走した。
花嫁は信洛の、心を寄せていた幼馴染みであった。
好きな女と一緒になるか、日本に行って横綱になるか・・・・・・。
結局、信洛は結婚した。しかし、花嫁を朝鮮に置いたまま、日本に渡ったのである。

ブローカー業で金を得ることを覚えていた

昭和15年2月末日。
信洛は、東京の二所ノ関部屋に入門した。
兄弟子たちは、すぐに信洛が朝鮮半島出身者だと見抜き、「オイ、金、金」と呼んだが、信洛は、礼儀正しく素直に「はい、はい」と挨拶していた。
その口惜しさを土俵に叩きつけた。