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小渕優子をまるで子供扱い 消えた金庫番と小渕家の「深い闇」
大特集 潮目は変わった!政界大動乱が始まる

松田賢弥(ジャーナリスト)

電話一本で呼びつける

その屈強そうな体躯の男は、まっすぐ前を見据えたまま記者の質問に応えた。

「解明は簡単なことではない。(刑事責任を問われ)身柄を拘束される可能性もある。とても町長はやれない」

10月20日午後、小渕家の地元・群馬県の上毛新聞に語ったこの言葉を最後に、同県吾妻郡中之条町長・折田謙一郎(66歳)は行方をくらませた。

その後、彼の所在については「東京・赤坂のホテルニューオータニで自民党に缶詰めにされている」「高崎市内の自身の事務所に戻っている」といった情報が流れ、カメラが彼の姿をとらえるチャンスも数回あった。しかし折田は、取材を避けた。まるで、すべてを抱えて表舞台から消えようとしているかのようだった。

小渕優子経産相(40歳。以下、優子とする)が安倍総理に辞表を提出した20日朝、中之条町の役場に姿を現した折田は「私が政治資金の実質的な総責任者です……」と言葉少なに語った。彼は、'00年5月に62歳で死去した小渕恵三元総理、その後を継いだ娘・優子と、父子二人の私設秘書を約30年間の長きにわたって務めた人物である。

折田は'12年、人口約1万8000人の中之条町で町長選挙に立候補し、無投票で当選している。この町長職の傍らでも、彼は優子の事務所に出入りし、小渕家の陰の「金庫番」という顔を持ち続けた。

「折田さんは、地元で優子さんに顔を出してほしい会合があれば、電話一本で彼女を呼びつけていました。町長の仕事で出張先にいても、しょっちゅう優子さんに電話をかけて、ああしろこうしろと指示していた。もう秘書ではないのに、優子さんの面倒を見続けていたんです」

中之条町役場関係者はそう明かす。また、恵三時代からの支援者もこう語った。

「優子さんは地元でも酒豪で知られていますが、ある会合の席で、酔った彼女が『私の酒を止められるのは、折田さんしかいないわ』と言って持ち上げていたのを見たことがあります。

優子さんにとって、折田さんは父親代わりのような存在だった。地元のことが分かる秘書が他にはいなかったんです。ただ、長年裏道を見歩きしてきた人だから、表に出れば『ホコリが出てくる』と囁かれていた」

折田は単なる秘書にとどまらず、優子の指南役であり、政治活動の師でもあった。しかし一方で、古くからの恵三支援者や町政関係者らを別にすれば、町長選に出るまで一般町民にはそれほど知られた存在ではなかった。

「何しろ、普段は高崎にある事務所から連絡を入れて、支援者に指示を飛ばしていた。中之条に頻繁に顔を出すような時間はなかったでしょう」(前出・恵三時代からの支援者)

地元住民の証言によると、中之条町出身の折田は、同地の中之条高校を経て群馬県立農林大学校(旧農業講習所)を卒業。自動車のセールスマンをしていた頃に恵三の親族と出会い、地元秘書になったという。

当時、恵三の選挙区だった群馬第3区(現・第5区)は、福田赳夫、中曽根康弘の両総理経験者を輩出した有数の激戦区で、恵三が「ビルの谷間のラーメン屋」と自嘲していたというのは有名な話だ。

恵三が所属していたのは、田中角栄率いる田中派だった。恵三の後援会元幹部によると、選挙を前に、角栄が高崎駅の駅長室で恵三を叱咤し、恵三は首を垂れて涙を流したという逸話がある。

「何が谷間のラーメン屋だ。そんなことで悩む暇があったら、郷里を歩け。どこに川が流れていて、水捌けは大丈夫か、土は痩せていないか、どの山のどこの家族に何人子供がいて、働き手はどうなっているのか。その足で歩いて見て来い」

恵三も、父の跡を継いだ世襲議員である。

一般に、世襲議員は東京育ちで地元を知らず、地元での選挙活動は「地元組」の秘書に頼りきりという人物が多い。恵三も中学校から東京暮らしで、弱冠26歳で初当選したとはいえ、地元は秘書任せにしていた。折田は、そうした「地元組」の秘書の一人だった。

「当時、選挙区内は福田系の家と中曽根系の家に分かれていて、『小渕ですが』と言って訪ねると、『顔を洗って出直して来い!』と怒鳴られたものです。

折田さんは、永田町の議員会館に詰めている東京の大学出の秘書に、『あいつら、地元の苦労を知らないくせに』と、決していい感情を持っていなかった。恵三さん自身も、また東京で事務所を仕切っていた秘書も早稲田大学雄弁会のOBですから、ずっと群馬で生きてきた折田氏にはコンプレックスもあったのだと思います」(前出・後援会幹部)

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