わき道をゆく~魚住昭の誌上デモ
2014年11月09日(日) 魚住 昭

かくて文豪は満足せず
魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」第101回

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森鷗外は日露戦争(明治37~38年)に軍医部長として従軍した。その体験から生まれたのが有名な『扣鈕』(ぼたん)という詩である。

南山の たたかひの日に
袖口の こがねのぼたん
ひとつおとしつ
その扣鈕惜し

遼東半島の南山は日本側に約4000人余の死傷者が出た激戦地だった。戦いの最中に林太郎(=鷗外)はカフスボタンをなくす。20年前、ベルリンで買った思い出の品だった。遠い青春の日々を追憶しながら、彼はつぶやく。

えぽれつと かがやきし友
こがね髪 ゆらぎし少女
はや老いにけん
死にもやしけん

「えぽれつと」は軍服を飾る肩章だ。少女は『舞姫』のモデルとなったエリーゼだろう。簡潔で端麗な林太郎らしい詩句である。

この後の「よろこびも かなしびも知る 袖のぼたんよ」にも哀れを誘われるのだが、最後のフレーズに行きついて愕然とさせられる。

ますらをの 玉と砕けし
ももちたり それも惜しけど
こも惜し扣鈕
身に添ふ扣鈕

「玉と砕けし ももちたり」とは南山で死んだ百千人の兵士らのことだ。それも惜しいがボタンも惜しいと林太郎は言っている。裏返すと、彼にとっては夥しい死者も思い出のボタン程度の重みしか持たなかったということだろう。

これは戦場に身をさらした人の感覚ではない。砲弾の届かぬ後方の司令部から戦況を他人事のように眺める傍観者の眼差しだ。もしかしたら彼は脚気患者にも同じ眼差しを向けていたのではないか。

前回触れた台湾の脚気惨害の後日談を語ろう。明治29年、陸軍米食派のボス・石黒忠悳に反旗を翻した土岐頼徳・軍医部長はまもなく更迭され、陸軍を追われた。
だが、土岐の決断で麦飯を支給された台湾軍の脚気発生率は激減し、消滅へと向かった。一方、脚気惨害を起こした石黒―林太郎ラインの責任は封印された。

陸軍の失態に対し、海軍側から批判の声が上がった。明治34年には陸軍内からも麦飯の脚気予防効果を強調する意見が相次いだ。
それに刺激されたのか。当時、小倉師団の軍医部長だった林太郎は医事雑誌に反論文を寄稿した。その要点を拾ってみよう。

(1)陸海軍が麦飯を摂った年と脚気激減の年が妙に符合するが因果関係はない、(2)蘭領インド(現インドネシア)で脚気が減ったのも日本と同一原因と考えられる、(3)ドイツの医学者は蘭領インドの脚気減少は自然減としている、(4)日本の脚気も自然に減ったのだろう。

ビタミン学者の山下政三さんによると、これは〈医学を抹殺する論法〉だ。山下さんは言う。

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