第98回 谷崎潤一郎(その三)初めて訪れた祇園で仏料理に芸者遊び。気鋭の20代作家は贅沢を尽くした

谷崎は、明治44年、1月号の『スバル』に、戯曲「信西」を発表し、初めて原稿料を貰った。
別荘で書いた二幕物を、一幕物に書きなおして造り直したものだったという。
同年3月に『新思潮』が廃刊したため、谷崎は6月に「少年」を、9月に「幇間」を、『スバル』に発表した。さらに、『三田文学』からの依頼で、10月号に「飇風」(ひょうふう)を書いた。

慶応大学は、当時、フランスから帰朝した永井荷風を教授として招き、雑誌『三田文学』を主宰させていた。
ところが、「飇風」の性描写が問題となり、『三田文学』10月号が発禁になってしまった。

しかし、谷崎はついていた。
業界の名物編集者、滝田樗陰から、原稿依頼が届いたのである。

滝田樗陰の谷崎評はかなり面白い。
谷崎は、尾上菊五郎によく似て居て、自分でも意識して真似したという。
身体の具合が悪い時に、不快な事でもあると、硬い、バリバリした頭髪をモジャモジャにして、顔色も黒くなり、本当に菊五郎の扮した悪党坊主のように見えてくることもあったのだそうだ。

かくして、『中央公論』11月号に「秘密」が掲載された。
が、谷崎の文壇的地位を確立したのは、『三田文学』11月号に掲載された、永井荷風の激賞記事によってであった。

「明治現代の文壇に於て今日まで誰一人手を下す事の出来なかつた、或は手を下さうともしなかつた芸術の一方面を開拓した成功者は谷崎潤一郎氏である。語を替へて言へば、谷崎潤一郎氏は現代の群作家が誰一人持つてゐない特種の素質と技能とを完全に具備してゐる作家なのである」(「谷崎潤一郎氏の作品」)

永井荷風と滝田樗陰に認められた、気鋭の作家を周囲が放っておくはずもない。
明治四十五年四月、谷崎は『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』に京阪見物記を書くよう依頼され、生まれて初めて、京都を訪れた。
しかも京都では、新聞社によってかなり贅沢をさせてもらっている。
京都に到着してすぐ連れられていったのが、麩屋町のフランス料理「萬養軒」であった。
「もう二、三人客を呼んでいる」と言われ、誰が来るのかと思ったら、芸者であった。

「先づ祇園では十人の指の中へ数へられる一流所の女ださうだが、肌理の細かいのは勿論の事、鼻筋が通つて眼元がぱつちりと冴えて―唇の薄い、肉附のいゝ美人である。外の一人は、黒の縞のお召を着た年増で、此れはなかなか好く喋る」(「朱雀日記」)

食事が終わって案内されたのは、木屋町の静かな旅館。