医療・健康・食
サムスン電子の工場で白血病はなぜ多発したのか 【後編】
文・立岩陽一郎(NHK記者)
舞台となったサムスン電子のキフン工場 〔PHOTO〕gettyimages

【前編】はこちらをご覧ください。

国の調査の責任者を直撃

韓国での白血病の発症率は、10万人あたり1人~2人となっている。サムスン電子の工場で従業員が白血病になったケースを疫学調査したところ、この数値を上回らなかったとされた。しかし前述の通り、調査結果の根拠となった具体的な内容は明らかになっていない。

では実際に、どのような調査が行われたのか。私はそれを指揮した人物に接触することができた。

その人物は当時、産業安全保健研究院の幹部だった。前述したように、産業安全保健研究院は、疫学調査を行った政府の機関である。

8月28日の夜、ソウル駅近くの宮廷料理屋に現れた元幹部は、さほど緊張した様子を見せず、名刺交換に応じてくれた。

席に着くと、まず裁判の結果について、「我々は科学的、客観的に調査を行いました。裁判所の判断は、裁判所の判断として尊重されるべきでしょう」と語った。そこには、抗弁するかのような気負いは感じられなかった。調査が科学的だったことと客観的だったことに、自信を持っている様子だった。

では、なぜ疫学調査の内容は開示されないのか? 私が問うと、元幹部は落ち着いた口調で答えた。

「それは私の判断ではなく、勤労福祉公団の判断です。そして、私はもう産業安全保健研究所の人間でもありません。今の私が言えることは、繰り返しになりますが、当時の我々の調査が科学的かつ客観的なものだったということです」

こうしたやり取りが何度か続いた後、私はある人物の名前を出してみた。大阪の胆管がん多発事件で、その発症率が異常に高いものであることを疫学調査で確認した熊谷信二(産業医科大学教授)だ。胆管がんの多発は、熊谷の綿密な調査がなければ社会問題として取り上げられることはなく、私が報じることも難しかったと思う。

当時のことを思い出しつつ、私はこんな話をしてみた。

「熊谷先生という方は、疫学調査をするとき、研究室に籠もって寝食を忘れ、延々と計算を続けるんです。いったんそれを始めると、横に私がいてもまったく気にしなくなる。気の遠くなるような作業ですが、真実に近づこうとする科学者の気骨を見たような気がしました」

すると、これまで滑らかに話していた元幹部の表情に変化が見えた。やがて、おずおずとこう尋ねてきた。

「立岩さん、あなたは熊谷教授をご存じなのですか?」

「はい」

「日本の大阪の印刷工場でがん発症の原因となった化学物質がありますね。ええと・・・」

元幹部が思い出そうとしていたのは「1,2-ジクロロプロパン」のことだ。私たちが胆管がん多発事件の真相を追う中で、印刷会社の元従業員への取材から特定した洗浄剤の原料である。

「『1,2-ジクロロプロパン』ですね。それが今年6月に、IARCで人への発がん性が認められる物質(グループ1)として指定されたことを知っていますか?」

と私が問うと、元幹部は心なしか前のめりになったような姿勢で答えた。

「はい。そのために熊谷教授が奮闘されたことも、日本政府が威信をかけた積極的な対応で発表に臨んだことも知っています。リヨンで開かれたIARCの会合では、参加した政府関係者、研究者がスタンディングオベーションで熊谷教授に敬意を表したんですよ」

「そんなことがあったのですか」

私は少し驚いた。今年6月3日から10日まで、フランスのリヨンで開催されたIARCの研究者会合で、前述のように1,2ジクロロプロパンが「人への発がん性が認められる物質」に指定されたのだが、これは熊谷の尽力によるところが大きい。私はその結果をNHK の国際放送「World News TV」で報じたが、会合で熊谷がスタンディングオベーションを受けるという晴れがましい場があったとは知らなかった。

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