読書人の雑誌『本』
オルレアン公ルイという男---『ヴァロワ朝 フランス王朝史 2』著・佐藤賢一

オルレアン公ルイという男がいる。生年が1372年で、没年が1407年、いずれも場所はパリだ。当時のパリは共和国の首府でなく、王国の都だった。その14世紀から15世紀にかけてのフランス王国といえば、後世に「百年戦争(La guerre de cent ans,The Hundred Years War)」と呼ばれる戦乱で記憶されている。イングランド王家を相手に演じた、長く、苦しい戦いだが、その闘争も序盤におけるエドワード三世、なかんずく黒太子エドワードの攻勢を、こちらのシャルル五世が見事に跳ね返し、フランス王家の優位で人心地つけた格好になっていた。そのシャルル五世の息子として、勝利の王国に生まれたフランスの王子こそ、オルレアン公ルイなのだ。

ただ次男だった。1380年に父の王位を継いだのは、兄の王太子シャルルこと、シャルル六世だった。その弟として本当なら日陰者で終わるはずが、オルレアン公ルイはきちんと歴史の表舞台に登場している。ほとんど悪目立ちするくらいだが、相応の理由がある。

実はシャルル六世は「狂王シャルル」の異名を持つ。現代の医学の見立てで、統合失調症とも、近親婚を原因とする遺伝的疾患ともいわれる病を発症して、王国を治められる状態ではなかった。その兄王のかわりとして、フランス王国の政治をリードした―といえば美談のように聞こえるが、オルレアン公ルイは美談に収められるほど可愛らしい玉ではない。

なんといっても派手好きな享楽家で、金遣いの荒さも一通りでない。オルレアン公ルイはパリに豪華な屋敷を建てると、そこで連夜の大騒ぎに興じ、「ほとんど全ての美女を絶叫させ、自らも種馬のごとく嘶いた」と揶揄された日々なのだ。が、それは仕方がない。寝取られ亭主にされたのでないならば、周囲がとやかくいうような話ではない。が、なお世人に眉を顰められたに違いないと思うのは、愛人の列にフランス王妃イザボー・ドゥ・バヴィエールまで加えていたからである。兄王シャルル六世の妻であれば、ルイには義姉だ。にもかかわらずというか、だからこそというか、とにかく兄が役に立たないならばと、文字通り身代わりを務めたのだ。

この調子で政治まで壟断―いや、フランス王国を見事に治めたというのなら、それまた英雄色を好むの諺で片づけられるのかもしれない。ところが、オルレアン公ルイの実際は、せいぜいが一方の主役を演じたにすぎない。もうひとり、シャルル六世の病に乗じた
男がいたからだ。

名前をブールゴーニュ公フィリップといい、やはり王子の生まれだが、こちらは先々代の王・ジャン二世の四男で、シャルル五世の弟である。シャルル六世やオルレアン公ルイには、叔父にあたる。このブールゴーニュ公フィリップが、なかなかの政治家だった。シャルル六世は11歳で即位したが、その少年時代から脇で政治を牛耳る立場にいた。この権勢家の叔父に挑戦したのが、生意気な若者に長じたオルレアン公ルイだったのだ。

この両者、よくぞこれだけ対立できるものだと思うくらいに対立した。シスマ問題、北イタリア問題、ドイツ問題、なかんずく揉めたのがイングランド問題だった。ブールゴーニュ公家は本領のブールゴーニュに加えて、もうひとつフランドルを有していた。フランドルの基幹産業が織物工業だが、その材料となる羊毛を生産するのが、イングランドなのだ。

事を構えたくないブールゴーニュ公は、和平を進めようとする。が、それは外交の私物化だと、オルレアン公は主戦論を唱え続ける。対立はブールゴーニュ公フィリップが亡くなり、息子のジャンが後を継いでも解消しなかった。ジャンは同世代の従兄弟であれば、いよいよ遠慮もなくなって、ひたすら衝突するばかりだ。

性格も合わなかった。強権的なところは同じだが、あとは全く違う。オルレアン公ルイが物陰に人を引きこみ、ひそひそと囁くような根回しを得意とする政治家タイプならば、ブールゴーニュ公ジャンは大声で大衆に働きかけて、自分の味方につける扇動家タイプだった。ルイが宮廷工作で自らの有利を図れば、それをジャンはパリの群衆に大騒ぎさせることで反故にする。抗争は泥沼化していくばかりで、あげくの末路がブールゴーニュ公ジャンによる、オルレアン公ルイの暗殺だった。

1407年11月23日の話だが、パリの路上で惨殺されながら、ルイはそれほど同情されず、ジャンもそれほど責められなかった。実行犯ラウル・ドクトンヴィルは、かつてオルレアン公に妻を寝取られた男だという。いや、ブールゴーニュ公妃からして、不倫の道に引きこまれていたとの説もある。返す返すも、オルレアン公ルイは女にモテる。だから、男に嫌われたのか。いや、女も含め世人一般に嫌われた。