読書人の雑誌『本』
『演義』の素晴らしき物語世界---『三国志演義』訳・井波律子

白話(口語)長篇小説『三国志演義』(全120回)は、後漢(25―220)末の群雄割拠の乱世が、激戦のすえ、曹操の魏、劉備の蜀、孫権の呉の三国分立へと天下の形勢が固まり、やがてこの三国がこぞって滅亡するまでの約百年を舞台とする大歴史小説である。

『三国志演義』(以下、『演義』と略)がほぼ現在みられる形にまとめられたのは、14世紀中頃の元末・明初だった。作者と目されるのは羅貫中(生没年不詳)。

羅貫中は、宋(北宋960―1126、南宋1127―1279)から元(1279―1368)にかけ、語り物や芝居など民間芸能の世界で語り伝えられた、おびただしい三国志物語を収集・整理し、西晋の陳寿(233―297)の著した正史『三国志』をはじめとする正統的な歴史資料と照合して、首尾一貫した堂々たる長篇小説に仕立て上げた。『演義』は、破天荒な面白さをもつ民間の三国志物語群と正確な歴史記述を巧みに結びつけ、明確な方法意識をもって組み立てられた物語文学なのである。

『演義』世界をつらぬく基本構想は、漢王朝の血筋を引く劉備の高貴な善人性を前面に打ち出し、ライバル曹操の悪人性を強調することにある。こうして善玉劉備と悪玉曹操の対立を基軸とし、多種多様の人物を巧みに区分けし動かしながら、ダイナミックな物語世界を展開してゆくのだ。もっとも悪玉曹操についても、『演義』はその悪人性や奸雄性を誇張して描く反面、劉備の義兄弟関羽に惚れこむ姿を活写するなど、曹操の長所や魅力もしっかり描いている。こうした視点と語り口を合わせもつことにより、『演義』は単純な善悪二項対立におわらない、成熟した物語文学になりえたといえよう。

それはさておき、『演義』はともかく無類の面白さにあふれる。その面白さはなんといっても、それぞれ魅力あふれる多彩な登場人物像によっている。主要登場人物にはそれぞれ忘れがたい見せ場があり、読者をいつしか物語世界に引きこんでゆく。

『演義』世界の大スター、劉備・諸葛亮・曹操のスケールの大きな躍動性、劉備一筋の関羽・張飛・趙雲のストレートで剛毅なイメージ、孫策・周瑜の攻撃精神あふれる颯爽たる姿を筆頭に、各人各様、ユニークな持ち味の人物が続々と登場するさまは、圧巻というほかない。また、大悪人から小悪人まで、陰険、狡猾、邪悪等々のマイナス性を憎々しくまきちらす人物も数多い。多彩な登場人物が、大いなる乱世の物語『三国志演義』の世界において、正邪入り乱れ、あらんかぎりの力を尽くし戦いぬく姿は、時を超えて読者を魅了してやまない。

ちなみに、『演義』は叙述文と会話文から成り立っており、叙述文は白話小説とはいえ、文言(文語)に近く、その表現はきわめて端正かつ平明だ。戦いの描写も多いが、その語り口はむしろサラリと淡泊であり、主要登場人物が死去し退場するさいも、過剰な詠嘆調に流れることはない。あくまでも淡々と語りながら、高まるリズムを内包した緊迫感あふれる文体だといえよう。

こうしたスタイルは、劉備の息子である蜀の後主劉禅が降伏し、当時の魏の実力者である司馬昭の前で、悲嘆にくれるふうもなく、屈託なく明るくふるまう姿を描く、『演義』世界の幕切れまで維持され、この物語が誕生と滅亡を繰り返す中国の社会と歴史を詠嘆することなく、みつめる作者の手になったことを如実にうかがわせる。

翻訳にあたっては、この端正かつ淡々としながら、緊迫したリズム感をもつ『演義』の語り口を、なんとか再現したいと思い、無数の講釈師によって語りつがれた、「三国志物語」の集大成たる『演義』の原点に立ちもどるべく、声に出して読むような感じで訳し、耳で聞いてもわかるような訳文にするよう心がけた。また、意訳は極力避け、原文に即して直訳しながら、日本語としても流暢であるようにつとめた。なかなか難しいことであったが、拙訳を読んでくれた中国の人が、この翻訳を読むと原文がわかると言い、その場で原文にもどして唱えてくれたときは、本望だと感動し、とてもうれしかった。

訳了し最初に7巻本としてちくま文庫で刊行されてから10年余り、この9月から12月まで、講談社学術文庫から堂々たる4巻本として毎月刊行される運びとなり、細かな誤りを訂正するなど、手入れを施した。拙訳により、『演義』世界の面白さが、発見あるいは再発見されるよう願うばかりである。

(いなみ・りつこ 国際日本文化研究センター名誉教授)
読書人の雑誌「本」2014年10月号より

井波律子(いなみ・りつこ)
1944年富山県生まれ。京都大学大学院博士課程修了。国際日本文化研究センター名誉教授。専門は中国文学。2007年『トリックスター群像―中国古典小説の世界』で第10回桑原武夫学芸賞受賞。その他の主な著書に『酒池肉林』(講談社現代新書)、『中国のグロテスク・リアリズム』(中公文庫)、『中国文章家列伝』『論語入門』(岩波新書)、『中国幻想ものがたり』(大修館書店)、『中国の隠者』(文春新書)、『水滸縦横談』(潮出版社)など。

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三顧の礼をもって劉備、諸葛亮を迎える。長坂・赤壁の戦いで大軍を制した劉備軍。血肉の戦闘と頭脳戦が交錯する『演義』前半の山場。