第九十七回 谷崎潤一郎(その二)祖父が導いた繁栄と父の事業の失敗。少年はそれを見つつ「向学心」に燃えた

谷崎潤一郎は、明治十九年七月二十四日、東京市日本橋区蠣殻町二丁目十四番地に生まれた。
父の倉五郎が数えで二十八、母の関が二十三だった。
谷崎が生誕した頃、両親は祖父の久右衛門と同居していたという。

祖父の久右衛門は、一代で谷崎家を繁栄に導いた人物である。
深川の小名木川べりの釜屋堀の、釜を製造する釜六という店の総番頭であったが、維新後に彰義隊が起こした上野の騒乱で、市中の土地家屋が一時値下がりしたのに乗じて、京橋の霊岸島の真鶴館と云う旅館を百両で買い取って経営を始めた。だが、それを二番目の娘の夫に譲り、日本橋の蠣殻町に家を構えて活版印刷業を始めた。

「明治十何年かに活版印刷業を始めたと云ふことは、釜屋だの宿屋だのと云ふ古臭い商売からハイカラな職業に転じた訳なので、祖父は当時の文明開化の尖端を行かうとしたのであらう。活版所の前を真つ直ぐに、蠣殻町一丁目の通りへ行くと、そこはその頃の所謂『米屋町』で、米穀取引所を中心に、左右両側に米穀仲買人の店が並んでゐた」(『幼少時代』谷崎潤一郎)

金銭がダイナミックに流通する、ある意味でバルザック的な世界を、目の当たりにして、谷崎は子供時代を過ごした。

驚くべきことに、谷崎の祖父はキリスト教ニコライ派の信者だった。
家は代々日蓮宗だったのだが、自分一人だけキリスト教徒になり、毎日マリア像を拝んでいたという。
キリスト教禁止令が解かれて十年ほどしかたっていない時期に改宗したのもまた、進取の精神によったのだろうか。

祖父は、明治二十一年六月、五十八歳で死んだ。臨終の際、神父が枕頭に現れ、日蓮宗の僧侶と口論になった。
葬儀を日蓮宗で出すかニコライ派で出すかで、家族の間で大問題となり、ニコライ派の浄衣をつけて十字架を下げさせ、その上に経帷子をつけさせた、という半ば信じがたい事態になったという。

谷崎は、阪本小学校の八年の全科を卒業した。けれども家計は厳しく、到底、中学に進める状態ではなかった。
父は久右衛門の娘婿だったが、商才がなく、いつも失敗したり、騙されたりしていた。

婚家の援助で洋酒屋を始めたがうまくいかず、久右衛門の事業を手伝ったが、これもだめ。米穀取引所の仲買人となったが、それとてうまくいくはずがなかった。
尋常小学校を出たら、奉公に行くか給仕にでもなってくれ、と父はいつも云っていた。

谷崎は、家計の逼迫を理解していたが、やはり中学校に進学したかった。
担任の教諭も、谷崎が優秀な成績を収めていることを承知していたので、なんとか進学させようと奔走してくれた。
そして、谷崎は東京府立第一中学校(日比谷高校)を受験し、合格したのである。
結局、谷崎の熱意と教師の奔走、親戚の協力により進学の道は開かれた。

目を光らせながら歩く形が野良猫に似ていた

「巌谷漣山人主筆の『少年世界』が博文館から創刊されたのは、私が阪本小学校の尋常二年生であつた年の正月、即ち明治廿八年の新春であるが、私が母校の出身者の中に文禄堂の主人堀野与七氏事京の藁兵衛があることを知つて、ひそかにその人に好奇心を寄せ、ときどき文禄堂の前を行つたり来たりしたのは、随分早くからのことで、多分私は少年世界を創刊後間もなく手にするやうになり、既にその誌上で藁兵衛の名に親しんでゐたのであらう」(同前)

いまや京の藁兵衛は、完全に忘れられた作家であるが、藁兵衛が谷崎に与えた刺激は大きかったようだ。