第95回 ベーブ・ルース(その二)競馬で多額をすり、映画にも莫大な投資。「不行跡」もまた人気を押し上げた

「ベーブ(赤ちゃん)」というニックネームは、オリオールズ(現在のオリオールズとは異なるマイナー球団)時代に付けられた。
世間知らずで、童顔が理由だった。

しかし、野球の実力は「赤ちゃん」ではない。初めての公式戦の登板でバッファロー・バイソンズを六安打でシャットアウトし、バッティングでは四打数二安打をたたきだした。

ところがオリオールズは経営難から、その年の夏、ベーブを二人の選手とともに三万ドルで、レッドソックスにトレードすることになる。ベーブにとっては幸運な話で、プロ入り数ヵ月で、メジャーリーグ入りを果たしたのである。

その五年後の1919年から、ベーブのホームランの量産が始まった。
前年の11本から突如29本をかっとばし、翌年ニューヨーク・ヤンキースに移籍すると、今度は54本。
当時の野球において、ホームランは今のように華やかなものとして扱われてはいなかった。球場がせまかったこともあり、足の遅い選手が選ぶ手段とみなされていたのである。

しかし、ベーブの放つ豪快なホームランはそれまでのホームランのイメージを覆し、観客を完全に魅了した。しかもその頃、ワールド・シリーズの八百長事件で球場から遠ざかりつつあったファンを、ベーブのホームランが呼び戻したのである。

大選手になり、高い年俸を稼ぐようになっても、ベーブの精神は子供のままだった。
ベーブの大食いは有名だ。遠征中のホテルで夜中に、クラブハウスサンド六人前、豚のナックル一皿、ビール大ジョッキ十一杯を平らげたこともあったという。

肥満のため体調を壊し、トレーニングと食事制限に励んだが、常に胸囲よりも胴囲が大きい体形だった。現在のヤンキースの縦縞のユニフォームは、ベーブを少しでも細く見せるためのデザインであったといわれている。

女性とのトラブルは頻繁で、金にもだらしなかった。
1920年から21年にかけてキューバを旅したときには、競馬で3万5千ドルをすった。同じ時期、自分が主演の映画を作る話に、さらに3万5千ドルを投資したが、結局、映画は完成しなかった。

ところが、こうした不行跡もまた、ベーブの人気を押し上げた。
大衆にとっては、完全無欠のヒーローよりも、家柄もなければ、教育もなく、様々な欠点を持ちながらも、バット一本で世間に立ち向かっているベーブのほうがはるかに魅力的だったのだ。

少年たちに夢を与えたことでも、ベーブの功績は大きい。
1920年のシーズン終盤に近いころ、セントメリー工業学校の生徒たちは、ベーブの支援によって、ニューヨーク・ヤンキースの西部遠征に同行することができた。
試合前にはブラスバンドの演奏が行われ、ベーブ自らマイクを持ってトークを担当したという。

年俸は時の大統領・フーバーを上回った

26年、ワールド・シリーズが始まる前日、ベーブはある男性からの電話を受けた。

「私の息子のジョニー・シルベスターは馬から落ちて寝たきりなのです。医者はこのまま死んでしまうかもしれないと言っています。息子はあなたの大ファンです。大事な試合の前ですが、一度見舞ってやっていただけませんか」と、男性は言った。