『吹奏楽の神様』屋比久勲氏が47年間子どもたちに
実践してきた怒らない教え方(1)

6つの学校で、全国大会30回出場、全国金賞14回獲得し、「吹奏楽の神様」とも称される屋比久勲氏。
屋比久氏が実践してきた、怒ることなく子どもたちの力を伸ばす教え方を紹介する。

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先生が勉強しないと子どもは伸びない

僕の家にはトランペット以外の楽器は何もありません。ほぼすべての楽器を独学で学んだからです。

僕は、音楽大学や大学の音楽科の出身ではありません。音楽の経験で言えば、中学校の頃に趣味でトランペットを始め、さらに大学4年生の時に週に1回クラブ活動でトランペットを吹いていただけです。

大学生の頃までは水泳で国体選手を目指していたのですが、いつもギリギリで代表になれず、そこで「国体選手を作ろう!」と思って、琉球大学教育学部を卒業後、小学校の先生の職につきました。でも、赴任した学校にプールがなかったので、国体選手を育成する夢は仕方なくあきらめました。

吹奏楽を指導するようになったきっかけは、ほんの偶然でした。

あるとき5年生の生徒が「トランペットを教えてください」と言ってきたので、二人で吹くようになり、さらに運動会でも吹くようになりました。そして、やがて学校に吹奏楽部を作ろうという話になり、そのまま僕が顧問になりました。これが吹奏楽指導者としての始まりです。

こういった経緯で吹奏楽の指導者になったので、知識も経験もない僕は一生懸命勉強しました。特に、十数年間、九州各地の吹奏楽指導者向けの講習会を受けに行ったのが大きかったと思います。

そこでは、クラリネットはどんな風にして教えた方がいいとか。フルートはこうとかを教えてくれたのですが、その時に、芸大の生徒がたくさん来ていて、モデルになる中学生への教え方を僕たちはじっくりと見ていました。

当時は、飛行機ではなく鹿児島まで船で行って、そこから各地に向かっていました。通い始めた頃は、沖縄はまだアメリカの占領下でしたので、ドルを円に替えて本土に行ったのを今でも覚えています。

余談ですが、この講習に出始めた当時は、まだコンクールにすら出ておらず、特に1年目は二十数名と部員が少なかったので「コンクールがあるけど、人も少ないし出ないでおこうね」と生徒に言っていました。

当時の沖縄も、コンクールは10校ぐらいしか出なかった時期だったので、コンクール出場なんて考えてもいませんでした。

そしたら、「先生、負けてもいいから、とにかくステージに上りたい!」と生徒が言ったので、「じゃあ、そう言うんだったらやろう!」と言いました。この時は、たしか『序曲<西部の人々>』を演奏して4位でした。

翌年から人数も34~35名になったので、本格的にやり始めました。でも学校には予算がなかったので、楽器も質屋を回って集めて、僕も独身だったから自分の給料をみんなつぎこんで質屋で楽器を買いました。