自分史にはフロイトの精神分析療法のような自分の暗部を解きほぐす癒しの効果がある立花隆著『自分史の書き方』---第1章 自分史とは何か(2)

2014年09月23日(火) 立花 隆
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実は雨宮さんは、ここで授業に挫折してしまった。彼女は文章はなかなかのものを書く人なのだが、年表のようなものをまとめるのが苦手だったのだ。「今度出します」と言って、出さないことを何度か続けるうちに、授業にも出にくくなったのか、出るのを中断してしまった。

しかし、後に授業に再び出はじめ、自分史もなかなかの作品を突然出すようになったことについては、またあとで書く。

ともかく、ここでは自分史年表を書くことの大切さだけを指摘して、話を雨宮さんの記録にあった、もう一つの重要なポイント、自分史の最良のモデルは、日経新聞の「私の履歴書」ということについて書いておく。

お手本は日経新聞「私の履歴書」

わたしは前から、自分史の見本として、いちばんいいのは、日経新聞の「私の履歴書」だろうと思っていたので、はじめの授業でそれを紹介した。日経新聞を読む人で、1面をパーッと読んだら、次に新聞を裏返して、いちばん最後のページの「私の履歴書」に行く人がいちばん多いといわれるくらい、人気のページだ。

1956年にはじまってから、すでに60年近くなる。登場人物は各界の有名人だが、日経らしく経済人が多く、後に経済人だけを集めて再編集した24巻本が作られたりしている。その中から、五島慶太(東京急行会長)、杉道助(ジェトロ会長)、堤康次郎(衆議院議長)、松下幸之助(松下電器産業相談役)のそれぞれ冒頭の部分を、プリントして配り自分史のモデルとして紹介した。

なぜ、これら4人の冒頭の部分をプリントして配ったのかというと、自分史の書き出しは、一般的に自分の生まれ育ちからはじめるのが普通だが、その典型的な例になると思ったからである。これくらいの書き出しの典型例をパパッと読んでそのマネをするところからはじめれば、誰でも簡単に自分史を書き出せるだろうと思ったのである。とはいっても、4人の書き出しは微妙にちがう。

まず、五島慶太と堤康次郎だ。どちらも辣腕の財界人として有名。そして経営する会社が東急と西武という、長らくライバル関係にある有名私鉄会社ということでよく引き合いに出される二人である。

〈五島慶太〉
私は明治十五年四月十八日、ちょうど釈迦降誕の日の十日後、信州上田から三里ほど山の中に入った、詳しくいうと長野県小県郡青木村という片田舎で、小林菊右衛門という水呑百姓の二男として生まれた。兄は総領の甚六というか、非常におとなしい男で、家業の百姓を継ぎ、後に村長、県会議員等をやり、平凡な一生を草深い片田舎で終ったが、私は世の二男坊の通例に違わず、負けん気の暴れん坊で、村の大事な鎮守の拝殿に大きな落書をしたり、同年輩の友人の頭に鍬を打込んで大怪我をさせたりしたこともあった。

この青木村の小学校に入学したのが明治二十二年で、ここで四年の課程を終えた後、隣村の浦里小学校に転校し高等二年を卒業したのち上田中学校に入学した。

〈堤康次郎〉
私が生まれたのは、明治二十二年二月十一日。滋賀県愛知郡八木荘村の農家である。父を猶次郎、母をみをといったが、五歳の時父に死に別れ、以来一人の妹とともに、祖父母に育てられた。だから親には縁が薄い、いわば不幸な子であったわけだが、しかしそのかわり祖父母は、私を育てることに、すべてを捧げてくれた。その意味では決して不幸な少年時代ではなかったし、とにかく私が今日あるのは、この祖父母のお陰である。この祖父母のもとで小学校を終え中学へ進むことになった。

どちらも、中学校へ進学するところまでをこの本の行数で8行(五島)ないし、6行(堤)でサラッと書いて、二人の人物論の的確なイントロとしている。

杉道助は大阪が活動の中心だったので、東京ではなじみが薄いかもしれない。大阪財界人の代表格で、戦後大阪商工会議所が再発足したときから、会頭を14年間もつとめた。ジェトロの前身の海外市場調査会を作ったり、池田勇人首相の要請で日韓会談の政府首席代表をつとめたりしたことなどでも知られる。

吉田松陰と縁戚関係につらなっていたことが、次の記述からわかる。

〈杉道助〉
私の郷里は山口県の萩だが、父相次郎が県庁に勤めていた関係から私は明治十七年、山口市で生まれた。私が吉田松陰の実兄の杉民治という人の孫に当るということは、いろいろなものに書かれもしたので、知っている人もあろうと思う。

この杉、吉田両家の関係は実に深く、松陰までに三代、杉家から養子に行って吉田の名を継いだものである。松陰以後も私の伯父の杉小太郎、弟の彥能が吉田家へ養子に行っている。ところが、ここに不思議な因縁がある。吉田家へ養子に行った人達はほとんど判で押したように若死している。松陰の伯父の吉田大助、それに松陰、私の伯父の小太郎と、いずれも二十代から三十代で死んだ。そこで私の弟が養子に行くと話が決まったときも、母の滝子は非常にいやがったものだ。

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