現代新書

寺尾紗穂 原発で働くということ
連載第1回 30年間の空白

寺尾 紗穂

ビッグイシューは一冊350円で180円が販売員さんの収入になる。販売員さんは野宿の人々。最近では若年層も増え、ネットカフェに暮らす人が多い。ビッグイシューを売って貯金をし、アパートに入ることを「卒業」と呼んで目標としている。りんりんふぇすには普通の音楽ファンからビッグイシューの販売員さん、そして野宿者を支援する人々、子連れの家族まで多様な人たちが訪れる。生の音楽に触れる機会などほとんどない路上生活者、ライブに行く余裕もないネットカフェ暮らしの若者、贔屓のアーティストを見に来た音楽ファン、色んな人がともに音楽を楽しむ場があってもいいんじゃないだろうか、というのがこのイベントを始めた時の思いだった。

こういう思いを抱くようになったきっかけは、遡れば2003年、東京・山谷の夏祭りを訪れたことだった。

私が通っていた大学の夜間部は、公立だったこともあり、全国から貧乏学生が集まっていたが、その夜間部の自治会にいた辻浩司(現埼玉県越谷市議)が、山谷の支援活動に携わっていた。私と辻とは石原慎太郎都知事(当時)主導の「都立大学改革」が進められる中で言葉を交わすようになった。

「改革」の過程で夜間部廃止、文学部縮小が方向づけられ、大学側と都の大学管理本部との協議の積み上げが一方的に覆された。担当教授から、都のやりたい放題にはさせない、こちらの主張も盛り込んでもらっている、と聞いていくらか安心していたことが白紙になったのだ。

教員が他大学に流出し始める混乱の中、進学したいけど院はどうなるのか、教員は残ってくれるのか、留学したいけど帰ってきたらどうなるのか、といった差し迫った危機感から、都議会傍聴や都議への訴え、ビラまきといった活動に普通の学生が追われていった。

そんなある日、炊き出しなどの野宿者支援活動に関わっていた辻が「山谷の夏祭りがあるけど来てみる?」と誘ってくれた。日雇い労働のおっちゃんたちがいるとこだよ、と言われて出かけてみたのは、ただの好奇心だった。東京の西で育った自分は、路上生活者もほとんど見たことがなかった。どんなところか想像もつかなかった。だから出かけてみたのだ。

坂本さんとの出会い

そこで私は、君の大学の校舎を建てたよ、という坂本さんというおじさんに出会った。目黒区からバブルの時期に移転し八王子に作られた校舎は、2000年に入学したときも十分に美しくて、キャンパス内に残る豊かな自然と調和していた。校舎を建てたという坂本さんを前にして、私は突然に気づいた。

いい校舎だな、誰が設計したんだろう、そう思うことはあっても、誰が校舎を作ったんだろう、という問いはそれまでの自分には浮かぶことがなかった。まるで校舎は最初からそこにあったものであるかのように、そこで汗を流した人たちのことが完全に思考から抜け落ちていた。

坂本さんは絵描きでもあった。その活動は時たま注目され新聞記事になったこともあった。加えて坂本さんは南方なまりの強い中国語を話した。彼はそれを中国語の標準語と固く信じていて、NHKラジオの中国語講座にちゃんと標準語を放送しろと電話したり、中国文学科だった私の中国語を「いなかっぺの発音」と笑うのだった。

坂本さんが話すのは、中国語だけではなかった。当時、校舎の建設現場には東南アジアからの出稼ぎ労働者がたくさんいた。坂本さんは休憩時間に彼らとコミュニケーションをとり、建設用語を各国語で学び、現場をまとめていたという。私は、小学生からの英語教育や国際化が騒がれる日本で、実は建設現場の土方さんが一番国際化しているという奇妙な状況を知ることになった。そして当然ながら、坂本さんは英語を知らなかった。彼が身につけたのはアジア各国の言葉である。

坂本さんは現場から落ちて腰を打ち、生活保護をもらって暮らしていた。私は彼のアパートの三畳間でアクリル絵の具と爪楊枝で描いた彼の絵を沢山みせてもらった。一本の絵の具を買うことがどれだけ自分にとって大切なことか、坂本さんは語った。食べていくこと、表現していくこと。音楽活動をやりつつ、院進学を考え、どこか宙ぶらりんだった当時の私は、坂本さんの人生が他人事には思えなかったし、坂本さんの言葉と絵とが、心に響いた。

「彼ら」から「あなた」へ

2008年8月、坂本さんは死んだ。