現代新書カフェ
2014年09月16日(火) 寺尾紗穂

寺尾紗穂 原発で働くということ
連載第1回 30年間の空白

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あれから3年半

2011年3月11日、私は生後2ヵ月だった三女に授乳中だった。その三女もすでに3歳半をすぎて、二人の姉をまねながら日々口達者になっている。

東日本大震災後、長いこと東京でも頻発した余震も最近はすっかりなくなって、オムツが店頭から消えて困っていた3年前の出来事もどこか遠く感じられる。唯一、福島産の野菜や果物が他の産地より安くなって並んでいるのが、現在の私の住む町で目に見える、あの原発事故の名残といえるだろうか。

少し前、ネットでは糸井重里が福島産の桃を警戒する人々をツイッターで批判して話題になった。保育園のお母さんたちとは放射能についての話題はこれまでほとんどしたことがない。よほど仲良くなって互いの家を行き来するようになった人と、ほんの少し話した程度だ。意見が違うことが分かればそこで会話は終わる。リスクのある話題と多くの母親が判断し、踏み込まない。

新聞には「最終処分は県外で」という見出しで、汚染土の中間貯蔵施設の建設が福島県大熊町、双葉町で受け入れられたことが記事になっていた。「最終処分は県外で」という要求が空手形になるのでは、という福島の懸念も伝えている。地価下落分を県が負担するということで話がついたこの問題だが、政府にとってはこの決定までが最大の山場で、以後中間貯蔵施設にかかわる政府の体制は縮小されるらしい。

原発をめぐる人々の意識も徐々に薄れてきているというのが実情だろう。今年の3月には日比谷で反原発の音楽イベントがあったが、その前日に行われたプレイベントで加藤登紀子、坂本龍一らが出演したトークに集まった聴衆は、二人の知名度から考えるとかなり少なかった。坂本氏が「3年目でこれ、ここに来ない人たちにどうやって訴えるか考えないと」と嘆いたのも無理はない。

新聞の情報がすでに古いものに感じられるほど、ネットには刻々と情報があふれる。情報の鮮度や目新しさという意味では、福島や原発というキーワードはすでに十分すぎるほど人々が目にしてきたものだ。

いまだ安住の地を得られない避難者、子供の健康のために母子で移住を選んだ家族の葛藤、凍土壁設置もままならず先の見えない汚染水処理、高線量の現場で日々被曝しながら作業する労働者。

目をそらしていい現実などないはずなのに、もう聞き飽きたような、わかったような、そんな人々の気分をメディアは如実に映す。電車の中吊り広告で週刊誌の見出しを眺めていても、原発や福島、放射能といった単語はぐっと少なくなった。

原発をめぐる盲点

試しに最寄り駅の駅ビルに入っているさほど大きくない書店に行ってみた。入口脇のラックを眺めて確認してみると、「週刊ポスト」、「週刊現代」など週刊誌7誌のうち、原発関連のことを記事にしていたのは「週刊文春」のみで、それも鼻血描写で騒動になった漫画『美味しんぼ』の作者が沈黙を続けているという小さいものだった。「週刊朝日」は飯舘村の喫茶店を取材していたが、グラビアだ。

店内をみてみるとそれでも二冊の原発関係の新刊の新書が平積みになっていた。澤田哲生編『原発とどう向き合うか 科学者たちの対話2011~’14』(新潮新書)と鈴木真奈美『日本はなぜ原発を輸出するのか』(平凡社新書)だ。

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