第93回 本田宗一郎(その四)現役を引退した後超多忙人間に―「お礼行脚」で日本中を回った

2014年09月28日(日) 福田 和也

本田宗一郎は、1991年8月5日、午前10時43分、お茶の水にある順天堂大学医学部附属順天堂医院で逝去した。
入院からわずか15日だった。
晩年、宗一郎は、入退院を繰り返し、死の二年前には脳血栓で倒れ、極秘で入院したこともあったという。
直接の死因となった肝不全は、かなり前からの持病であったが、八十四歳まで生きたのは長命と云ってよいだろう。

興味深いのは、現役引退後の藤沢武夫と本田の生き方である。
引退後、藤沢は、六本木の邸宅を改造し、『高會堂』という、呉服、書画、骨董を扱う店を開いた。商うのは夫人と息子さんだったというが、ホンダの仕事からは一切手を引き、完全に隠居を決め込んだのである。
一方本田は一時休みはしたが、本来の行動ぶりが頭をもたげ、日本はもとより、世界を駆けまわる「超多忙人間」になったのだった。

宗一郎はまず、銀座裏にあるビルの二階に「本田事務所」を開いた。
ビルの所有者は高等小学校時代の同級生である山崎卯一だった。山崎も、町工場から始めて、成功をおさめていた。
ただ、そのビル自体はかなりボロだったようで、「世界の本田宗一郎がこんなボロビルに事務所を開かなくてもいいだろう」と、山崎は何度も忠告したのだが、宗一郎は「かしこまったところじゃ落ち着かないから、ここでいい」と言ってきかなかったという。

宗一郎はこの事務所を拠点にして、全国のホンダの販売店、工場、営業所の社員たちへの「お礼行脚」を開始した。
綿密なスケジュールを組み、ヘリコプターと車を併用し、秘書一人を連れ、今日はこの地区、明日はこの地区と飛び回り、一日四百キロ以上を走破することもあったという。
しかも社員に挨拶するだけでなく、訪れた場所で必ず本田流のパフォーマンスを見せた。
例えば、小さな町のディーラーに立ち寄ったときのこと。
客など滅多に来ないのだが、宗一郎は飽きずに何時間も立っていて、客が来るとすばやく近寄り、「本田でございます。いつもごひいき有難うございます」と挨拶する。
客はまさか目の前の老人が本田宗一郎であるとは気づかない。宗一郎は自分の正体を明かすことなく一セールスマンになりきり、一台、二台と契約をとりつけるのである。

工場に立ち寄ったときなどは、現役時代そのままに、誰彼構わず手を上げて、「イヨ、ヤア、オッ」を連発する。そればかりか、ネジの埋め込み作業をしている若者を捕まえ、「何だ、そのやり方は!」と叱咤する始末であった。

宗一郎の「お礼行脚」は二年半にわたって続いた。国内が一段落した後は海外事業拠点へと、行動範囲は広がる一方だった。

ゴルフ、日本画、芸者遊び・・・・・・あらゆる道楽を重ねた

宗一郎がゴルフを始めたのは、還暦を過ぎてからであった。
場所は、埼玉県の荒川の河川敷上にあったゴルフ場である。現在はなくなってしまったが、当時はプレー代が安くて都心からも近いと人気があった。

宗一郎はそこの正会員で、ロッカーにも「本田宗一郎」の名札を掲げていた。
しかし、他の会員たちは、その「本田宗一郎」があの「本田宗一郎」であるとは気づかなかったという。まさか河川敷でプレーするとは思わなかったのだ。

1
nextpage



昨日のランキング
直近1時間のランキング