「あたしはお母さんの人生を認めるよ」――政治家・田中角栄 その傍にあり支えた佐藤昭 娘でなければ描き切れなった秘録 『昭 田中角栄と生きた女』

「角栄の人生にとって、女とは何だったのか」

(解説:早野透/元朝日新聞コラムニスト・桜美林大学教授)

田中角栄と生きた女、佐藤昭については、三冊の本がある。

第一に、ノンフィクションライター児玉隆也が書いた『淋しき越山会の女王』がある。第二に佐藤昭自身が書いた『私の田中角栄日記』。三冊目は、佐藤あつ子のつづる、この『昭田中角栄と生きた女』である。ほんとうの女王でもなく映画スターでもないひとりの女が、いわば三つの伝記を持つことになったのは、田中角栄という稀代の政治家と形影まじりあって生きたからこそだった。

田中角栄(1970年)〔PHOTO〕gettyimages

田中角栄は、新潟県旧二田村生まれ、小学校を出て15歳で上京、小僧奉公から事業家となり、政界で立身出世して総理大臣にまでかけのぼった昭和の政治家である。わたしは「番記者」をしていた。快活で、せっかちで、頭の回転がよく、権力を揮いながらも思いやりのある男だった。うかうかと付き合えば、こちらに毒の回りそうなオーラがあった。

佐藤昭は、昭和3年(1928年)8月5日、新潟県柏崎町枇杷島で生まれた。角栄の出身地とそう遠くなく、いまはいずれも柏崎市となっている。東日本大震災のちょうど1年前の平成22年(2010年)3月11日に死んだ。81歳だった。

日本が戦争に敗れて混沌としていた戦後、佐藤昭は十歳年上の角栄に出会い、離れ、また出会った。角栄の愛人となり、秘書となり、金庫番となり、娘の敦子を産んだ。この本の著者あつ子である。それは田中角栄のネガフィルムというべきか、佐藤昭の人生をたどることは、田中角栄に陰翳のある斜光をあてることになる。それが日本政治史のなかで、田中角栄に、ほかの政治家にはない人間の魅力を与えているといえるだろう。

あつ子の書いたこの本の意味と価値を語るには、佐藤昭なる人物がどのように世間に登場したか、どのように世間から見られたか、そこにさかのぼらなくてはならない。佐藤昭にかかわる三冊の本の成立過程をときほぐさなければならない。

まずは、児玉隆也の『淋しき越山会の女王』である。
昭和49年(1974年)、「今太閤」と呼ばれた田中角栄は二年余の首相の座にいた。すでに政権の翳りが見えていた。

角栄の陰にこの女あり、と世間に知らしめたのは、その年の『文藝春秋』11月号、立花隆の論文「田中角栄研究─その金脈と人脈」とともに掲載された児玉隆也のこのルポルタージュである。当時、首相官邸詰めの新人記者だったわたしは、議員たちが権力の蜜を求めて群がる「佐藤ママ」の存在をまだ知らなかった。「角さんは金脈の暴露よりも越山会の女王のほうに心を痛めているらしい」という噂話が聞こえてきた。

児玉が「淋しき」という形容をしたのは、佐藤昭の人生の以下の挿話のゆえであっただろう。

昭和20年代、佐藤昭は最初の夫と別れ、新橋のキャバレーでホステスになる。そのキャバレー「S」は「どうかすると店内に小便の匂いがした」と児玉は記している。児玉はキャバレーの店名をイニシアルで書いたけれども、あつ子の本は「S」とは「処女林」だったと明かしている。その名だけからも当時の佐藤昭の哀しい境遇が想像される。いまや角栄の名代として疑似権力を揮う佐藤昭にとっては触れられたくない過去の秘密を暴露されたということになろうか、人一倍気配りの利く角栄が「心を痛めた」というのもよくわかる。

あの戦後を生き抜くには、だれだって、一つや二つの隠しておきたい過去を持っている。しかし昭は、それを、胸を突き刺されるように書かれた。

『文藝春秋』記事のもたらした「金脈政変」で首相を退陣した角栄は、さらに2年後、ロッキード事件の収賄容疑で逮捕され、一転して刑事被告人となる。一審有罪、懲役4年追徴金5億円の判決が下る。しかし、角栄は衆院新潟三区で抜きんでた得票で当選し続けた。とはいえ、政界の「闇将軍」としての権力維持の苦心も重なってのことであったろう、昭和60年(1985年)2月27日、浴びるように飲んだうさばらしのウィスキーの酔いのなかで脳梗塞に倒れ、8年の闘病の末に平成5年(1993年)12月16日、75歳で死んだ。