陸前高田の市街地最後の夏に咲く「うごく七夕」-川原祭組の決意
2011年3月の陸前高田の市街地

ここにはかつて、どんな街並みが広がっていたのだろう。どんな息遣いがあり、どんな営みがあったのだろう。今でも時折、更地に僅かに残された子どもの玩具や家具の欠片を見つける度に思う。

陸前高田市の市街地を、圧倒的に埋め尽くしていた大量の瓦礫は、この3月に回収が終わり、後には広大な更地が残された。今ではかつての商店街や多くの道路が封鎖され、所々に土の山が並んでいる。この夏から本格的に、市街地のかさ上げ工事が始まったのだ。

現在の市街地。市街地の一部で既にかさ上げが始まっている。

「うごく七夕」河原祭組を存続させるために

8月7日。旧暦の七夕にあたるこの日、今年も伝統行事の一つである「うごく七夕」祭りを迎えた。各地区の、華やかに飾り付けた山車には囃子が乗り、街中を練り歩きながらその美しさ、勇壮さを競い合うこの祭。元は先祖を弔うものとしてはじめられ、盆に帰りくる魂たちが道に迷わないよう、太鼓の音を強く響かせ導くのだ。この「うごく七夕」もかさ上げ工事に伴い、市街地跡で催されるのは最後となった。

市街地が壊滅するほどの大災害を経ても、人々の手により紡がれてきたこの祭。夏のこの一日にかける人々の想いもひとしおだ。「伝統を絶やしたくないのは勿論ですが、何もなくなってしまったこの街を、寂しいだけの場所にはしたくない。ひとつくらい心からわいわいと楽しめる場を残したかったんです」。そう語るのは川原祭組で会長を務める佐々木芳勝さん(57)。その言葉通り、元の住人たちだけでなく、就職や進学で街を離れていた若者たちも、この日を目指して故郷に戻ってくる。

かつて約230世帯が集まっていた川原町内会は、1世帯を残し、全ての家屋が波に呑まれていった。肉親や友人を失った悲しみを抱える中、幼い頃から隣り合って暮らしてきた家族たちが、ばらばらの仮設住宅に移り住まざるをえなくなってしまった。町内会は解散を余儀なくされた。このままで終わらせたくはない。何とか伝統は引き継いでいきたい、集う場を残したいと、町内会解散後も「川原祭組」を存続させることを決めたのだ。

ほぼ全壊状態だった川原会館の二階に辛うじて残っていた2つの太鼓、土車だけが残った山車と共に、再挑戦は始まった。2011年の暮れには基礎だけを残していた川原会館跡地にプレハブ小屋「どっこいしょ」を新たに建て、ようやく集える場をひとつ築くことができた。これでようやく、練習が再会できる。

けれども震災前のように、歩いて練習に通える環境ではなくなってしまった。それぞれ生活の立て直しに奔走している時期でもあり、親にとっても毎晩の子どもたちの送り迎えは楽ではない。中には数キロの道のりを歩いて練習に来る学生や、街中ぐるりと回りながら子どもたちの送迎を引き受ける若者の姿もあった。

その想いはやがて全国に届き、支援の輪を広げていく。東京や大阪からも有志の学生が加わるようになり、祭が近づくにつれ「どっこいしょ」は賑わいを見せるようになった。けれども一体どこまでを元の祭組の人々が担い、どこまで外から来る人々を受け入れるのか。祭への想いが強まるほどに、環境の変化には戸惑いの声も上がった。「私は外から集まってくれた人を"ボランティア"とは呼びたくないんです。一過性で終わらせたくはないし、壁も作りたくない。皆同じ"川原祭組"として、私も彼らも気兼ねなく参加できる場にしたかったんです」。存続のためにどんな決断が必要なのか。本番まで、葛藤は絶えなかった。

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